2007-01-01から1年間の記事一覧

金刀比羅宮の展覧会について書いたあと、メールでご示唆を頂くことがあって、ちょっとまとめて日本の古典美術が見たいなと思っている。応挙や芦雪を見ようと思うと、首都圏なら東京国立博物館になってしまう。東博には重要な美術品が盛り沢山あって本館に常…

終わってしまった展覧会だが、Bunkamuraでルドン展を見た。かなりの点数があり、見るのに相応に時間がかかった。1点のこらず集中して見る事ができたわけではないが(会期末だからか混雑していた)、全体に感じられたのはルドンは(ことにリトグラフにおいて…

国立西洋美術館で「パルマ」展を見て来た。僕は趣味的にコレッジョの描くマリア像を愛好していて、それが目当てだった。通俗的な意味で可愛いマリア像を描く画家で、たぶん良い勝負をするのはムリーリョの「無原罪の御宿り」シリーズくらいなものだろう。僕…

作品を、あるいは展覧会を見る力というのは実際のところ、作品を見る前にかなりの程度試されてしまう。すなわち「何を、いつ見るか」という選択にこそ「見る」ことのフレームがかけられている。「何を」という点では、人はけして全てを見ることができるわけ…

東京藝術大学美術館で「金刀比羅宮書院の美」展。これは充実した展覧会で、同館で開かれている広重展と併せて見ごたえがある。展示は金刀比羅宮の書院の間取りに基づき襖絵を再配置するもので、出品できないものは高精度な複製を置き、やりすぎない程度に、…

そういえばヘンリー・ダーガーの展覧会を見ていた。原美術館での展示はとっくに終わっているが、この人の日本での語られ方、受容(消費)のされかたには違和感がある。簡単にこのエントリのオチを言えば、ダーガーは美術的な判断の上で「病人」とされたとい…

昨日コバヤシ画廊で林佳慧展を見たが、少し印象的だった。大形のキャンバスに描かれた油彩画が3点あって、いずれも横構図にブルー+グレーのトーンのバリエーションの絵の具がたっぷりと引かれ、そこにやや濃いトーンのストロークでコイルのような渦巻きが伸…

サントリー美術館で「水と生きる」展を見て来た。前期・中期・後期と分かれていた展示期間の後期にあたる。この美術館が水曜日〜土曜日は夜8時までやっているのはいいな、と思う。都市型美術館というのは本来こうあるべきで、他の都内の美術施設もぜひそうな…

四谷アート・ステュディウムで平倉圭氏の講座「脱-知覚的不確実性/映画と「顔面」の現在」。平倉氏はやはりライブ向きの人だと思う。そこで行われるのはある程度「説得」という行為で、もちろん「説得」というのは文書で行われるより対面で行われた方が効果…

テレビ放映されたアニメーション版「時をかける少女」は面白かった。この映画は、いわば「時をかける少女」という作品の生産と消費の在り方そのものを写し出している。すなわち、「時をかける少女」の、何度も時間を反復しその内容を修正しつつ「真の時間」…

コバヤシ画廊で庄子和宏展。3点の大形の油絵とバックヤードに小品がある。3点のタブローのうち、会場に入って向って右の壁面にあるものは、極端な横長のフレームに画布が張られている。2つの直方体が奥行きのイリュージョンのある地面に載っている状態を描写…

1995年3月20日

僕は1995年3月20日の朝、午前8時25分頃上野駅にいた。当時職場に行くために日比谷線に乗る必要があって、地下鉄の構内に入った。日比谷線の改札の手前には銀座線の駅があるのだが、そこが混雑していて抜けられない。構内で案内があり、車両故障か何か(記憶…

川端龍子に「爆弾散華」という絵があって、以前見た時印象的だったのだけど、歴史を辿れば、爆弾の降る所で絵が描かれるのも、美術作品が銃弾に曝されるのもくり返されてきた。だから、僕が昨日書いた「爆弾の降る場所で絵は描けない。銃弾の行き交う場所に…

夜、テレビを漠然と見ていて思った。絵を描くこと、美術作品を制作してゆくことはどのように社会に繋がっているのだろう。絵や美術は、基本的に社会や現実的なこととは無関係だと言う人は画家を含めてそれなりにいるだろうし、反対に、だからこそ(絵や美術…

父母と一緒に住んでいた実家から離れて暮らすようになって随分経つ。そして、今は母が一人暮らしをしているその家にたまに行くと、はっきりと違和感を覚える。その家は狭くて古く、基本的には僕が居た頃と物理的な組成は何も変っていない。にも関わらず、そ…

講談社文芸文庫の「近代日本の批評3(明治・大正編)」をぽつぽつ再読している。ここに出てくる多くの批評家や作家を僕は知らない。徳富蘇峰とか荒畑寒村とかいう名前に対する教養は僕には欠けている。が、未知の名前がばんばん出て来てはガンガン切られてい…

雑記。太った。先月、人生最重量を記録してしまった。大学を卒業した頃は52kgだった(演劇をやっていた時は48kgとかだった)体重が、ここにきて60kgを超えてしまった。デブである。もともとチビなので、これでハゲたらチビデブハゲだ。コンプのコンプなんて…

A-thingsで行われた、松浦寿夫氏と林道郎氏の対談を聞きにいった(岡崎乾二郎をめぐって)。僕はこういう催しに出かけるという習慣があまりないのだけど、今回の企画は岡崎乾二郎氏の作品集の発刊イベントを兼ねていて、こんな試みが小さなギャラリーを主体…

先月の「うきぐも」展に関して、アーティストの坂中亮太さんがtxtを書いて下さっていました。 http://d.hatena.ne.jp/Ryo-ta/20070627 遅くなりましたが、改めて深い感謝とともにリンクさせていただきます。 そういえば先日、雨の中「うきぐも」展の打ち上げ…

大辻清司の写真は常に「何かについての写真」であるように見える。それはすなわち、作品についての写真であり、時代を主導する美術ムーブメントについての写真であり、機械や科学についての写真であり、批評についての写真であり、そして写真についての写真…

GALERIE ANDOで見た内海聖史氏の新作絵画について。この展覧会及び作品には、先の資生堂ギャラリーart egg展(参考:id:eyck:20070329)よりも遥かに明瞭に内海氏の特徴が現れていると思える。つまり、今までも指摘したことだが、内海聖史氏は大きさの作家と…

コンセプチュアル・アートはどこで間違えたのだろう。今年の1月から断続的に行われていたphotographers' galleryでの林道郎氏によるコンセプチュアル・アートと写真についての講座全5回のうち、制作にかまけてすっぽかしてしまった2回目を除く4回は聞きに行…

Bunkamuraミュージアムでプラハ国立美術館展を見て来た。こういう「デパート主催のダメ名画展」というのを見るのも久しぶりだ。要するに、ろくな作品がないだけでなく、積極的に“悪い”作品すら混入している展覧会で、いったい誰が、どのような基準でこれらの…

国立新美術館でモネの展覧会を見てから、もう10日もたってしまった。混雑していてあまり良いコンディションでの鑑賞ではなかった、ということもあるけど、とにかく何かを書くのが難しい。では書かなければいいではないかと思い、事実そうしてきたのだけど、…

山種美術館で見た福田平八郎「筍」について。1947年に描かれている。絹本着色で縦134cm×横99.4cmの大きさがある。画面向って左下に縦に長く黒々とした皮に覆われた筍が1本あり、画面中央を空けて右側やや高い位置にもう一本筍がある。背景は薄い墨色の線で単…

A-thingsで岡崎乾二郎展の前期を見て来た。これは一体絵画なのだろうか。0号の木わくに張られた画布に塗り付けられ、盛り上がったものは絵の具というよりは樹脂としか言い様がないし、何気なく台座が装着されているのを見れば、それはどちらかといえば彫刻と…

アニメーション「電脳コイル」で最も注目すべきはその身体性へのこだわりだ。ネット環境を近未来の子供達にとっての“原っぱ”、つまりフィールドとして捉え、そこで展開する子供たちの心理関係を描いているこの作品は、様々なITガジェットをちりばめながら、…

アトリアでの展示に関して。今回、僕はキャンバスを会場の床に近接するように展示した。質問されることが多かったので、とりあえずの材料(作者が“解答”を持っているのではないので、こういう言い方になる)を書いておく。構造としてはあくまで壁にかけてい…

アトリアでの展示が無事終了しました。御来場頂いた皆様に御礼申し上げます。また、併せてアトリアのスタッフの皆様、企画者の増井さんにも改めて感謝いたします。ありがとうございました。古谷利裕さんが、「偽日記」でコメントを下さっています(6/23のtxt…

アトリアの搬入をしてきた。ぼくにとって殻々工房での展示は思いのほか大きな経験だったことがよくわかったのは作品設置の時で、要するに空間の広がりや壁面の質をじっくり観察して、白いキャンバスに絵の具を置くように作品の位置を確定してゆく、その感覚…