2008-01-01から1年間の記事一覧

・逆に、決定的に覚えていて、かなりな程度「あの感覚」を想起できる経験がある。私は、2006年の1月のイタリア旅行の事を、いまだに相当程度覚えている。それは何があったとか何を見たとかそういうことではなく、まさに「あの感じ」として覚えている。冬の陽…

・子供の事が覚えていられない。数日前の事が覚えていられない。子供は、ほんの少し油断しているとするりと変化している。昨日までしていなかった事を今日している。おとといまでしていたことをもうしていない。していなかったことをするようになって、して…

今、ちょっと心が弱っていて、またクレヨンで描き始めている(私は心が弱るとすぐクレヨンに頼る)。安くて厚いスケッチブックを買って、小学生の使うサクラクレパスでぐりぐり?描いている。クレヨン/クレパス/パステルは一時期いろいろと試した。ヌーベル…

Floating Odyssey展で見る事のできた南條敏之氏の写真は、奇妙な感覚を与える。アクリル板に張られた4点の写真には水面に映った陽の光が映っている。いずれも縦長のフォーマットで、上下に2点ずつ、少しずつお互いに距離を持って、壁からも少し浮いて展示さ…

時間をメディウムとして扱う、と推測する時、そこでピカソの作品に感じられた(製作的)時間とは、もしかすると空間的に把握されているのではないだろうか(建築的、といってもいい)。絵画は眼前の光景の断片ではなく全体を瞬間的に把握する手段である、と…

国立新美術館で「巨匠ピカソ 愛と創造の軌跡」展、サントリー美術館で「巨匠ピカソ 魂のポートレート」展を見て来た。噂には聞いていたのだけれど、とても充実した展覧会だった。個人的には過去最も刺激的だったピカソ展のような気がする。国立新美術館で150…

Kaleidoscopic Gallery Sceneの、野沢二郎展のページに、私のtxtが転載されています。 http://kgs-tokyo.jp/interview/2008/1020/index.htm 記事自体は、このpaint/noteの10月の記事と同じものですが、作品画像や会場の様子などが掲載されています。展示を見…

時間がたってしまったけれど、「印象派の巨匠ピサロ展」という展覧会を見ていた。率直に言ってあまり充実してはいなかったのだけれど、奇妙な記憶の残り方をしている。まず気になったのがピサロ筆とされていた、いくつかの作品のダメさ加減だ。もちろん、こ…

・子供が生まれて1年が経って、最近ようやく歩き出しそうな気配がかんじられつつも、なかなか一歩を踏み出さない。ここは一つ、ちょっと目新しい刺激のある場所に連れて行ってみよう、といった動機であらかわ遊園というところに行ってみたりもした。 ・もっ…

少し前のことになるのだけど、損保ジャパン東郷青児美術館にジョットの展覧会が来ているというので行っていた。もちろん、日本にそう簡単にジョットがくる筈がないのだし、「ジョットとその遺産展」と題されていれば、実質的にはジョットというよりはその周…

モーリス・ルイスのオペレート・モデル

先に触れたモーリス・ルイスの「アンビII」は、〈ヴェール〉で薄く重ね合わされていた色彩の層が、はっきりと分離された作品だ。この「分離」に必要だったのが「奥行き」で、層が圧着され混ざり合って混濁した〈ヴェール〉の各レイヤーを、おのおの手前-奥に…

川村記念美術館の今回のモーリス・ルイス展は、全体に素晴らしい。多くが国内の(もちろん川村記念美術館所蔵のものも含む)コレクションであり、作品点数も15点と、決して大量にルイスの作品が見られる訳ではないのだけど、三つの主要なスタイル〈ヴェール…

川村記念美術館で見ることができたモーリス・ルイス「アンビII」について。1959年に描かれている。縦248.9cm、横360.7cmの大きさがある。キャンバスにアクリルで描かれている。画面の上から下に向けてステイン(染み込み)された赤褐色、あるいは茶色の絵の…

少し前から、やや更新が途絶えていた「組立」blogを再起動しています。最新エントリは「オバマは日本のブッシュになるか」。 http://d.hatena.ne.jp/nagase001/20081105 なんで美術家がこんな記事を書いているのか?といえば「組立」を追って下さっている方…

土曜日は日光がとてもきれいで、うちのアパートの周囲の緑は黄色がかって輝いていた。こういう日に、川村記念美術館にモーリス・ルイス展を見に行く、という思いつきができた自分は幸せだと思う。佐倉についた時刻は午後3時で、もう太陽が低くなり始め黄色味…

美術のさいたま/政策のさいたま

経済の状況に対する、政治、あるいは金融の政策が面白い。いや、面白い、と言っていいのかわからないのだけど、ここには何か深い「さいたま」性がある。ちなみに、私がここで言っている「さいたま」性というのは、地理的ローカリティにとどまらない。ある種…

先週コバヤシ画廊で野沢二郎展を見てからもう1週間たってしまった。会期は既に終わっている。ここ数年の、同じ会場で毎年展示されてきた野沢氏の作品と、今回の展示は明らかに異なる点がある。その一つがサイズだ。例えば昨年の展示では4メートル超の作品が…

「Art of our time」展は、他にも意外な作品に出会えた、というか高松宮殿下記念世界文化賞、というものを全然知らなかったことに気づいた。ブリジット・ライリーとか、アンソニー・カロなんかが受賞していて(つまり作品が展示されていて)、妙に感心してし…

上野の森美術館で「Art of our time」という展覧会を見て来た。「高松宮殿下記念世界文化賞20周年」というふれこみの割には、なんというか、けっこうラフな感じの展覧会で、作品の質もかなりばらついているし、展示もざっくりしている。 私はこういったカジ…

美術のさいたま/経済のさいたま(3)

・美術に携わるものが、価値や、価値の共有としての信用について考える事はある程度必然でありながら、それが語りづらい空気が感じられてしまう。これは抑圧的なイデオロギーというものだろう。むしろ価値とその共有について(あるいは共有の不可能性として…

美術のさいたま/経済のさいたま(2)

・美術を、「美」という言葉だけではなく、「価値」と捉えることで、いわば「美」の外から美術を思考する可能性。フェルメールを見て私が感じた価値は、けして誰とも共有されない。私がその時感じた、絵の具の粒立ち、複雑な反射、画面内部でのうごめくよう…

美術のさいたま/経済のさいたま(1)

・信用を、価値の共同化として捉えてみること。信用の崩壊(括弧つきの)とは、複数の人間が、相互に「同じ価値を共有していると振る舞う」態度の不成立であり、自分以外の誰かが、自分の信じている価値を、自分が信じているようには信じない、という状況の…

東京都美術館のフェルメール展が充実していた。フェルメールは国内ではなかなか複数の作品を並列して見る事が難しいけど、この展覧会には7点出品されている。作品間のつながりや差異が確認でき、相互の比較が可能だ。こんな機会は2000年の大阪市立美術館「フ…

父が亡くなってから、漠然と父の死に対し後悔に似た気分が残っている気が、ずっとしていた。父は脳梗塞で倒れて入院して3年でゆっくり衰えて死んでいったから、彼の死に私が直接なにかしらの責任があるわけではない。私が生前父と対立していた、というような…

少し前に前川國男の自邸を見て来た。本来建っていた場所から武蔵小金井の江戸東京たてもの園に移築されたのだそうだ。私が感じたのは、目立つ中央吹き抜けの心地よさというよりはむしろ「狭さ」と「低さ」が生み出す関係のコントロールの緻密さだ。大きな切…

・義理の祖父が亡くなって、しばらく経った。私は亡くなる直前に見舞った時、もう少しだけ猶予があると思いこんでいて、訃報を聞いたときは上手く飲み込めなかった。 ・じんわりと死、というものの感触が、自分の中で感じ取れるような気配がある。こういう事…

狩野芳崖は10代前半から中頃で画家としておおよそ完成している。東京藝術大学美術館で見た「狩野芳崖 悲母観音への軌跡」展で感じられたのはそういう事だ。ここでの「完成」とは、いわば絵を描く時の絵描きの構え、そこから生み出される線や色彩の質の事だ。…

土曜日に、ふとテレビをつけたら、上下が切れて横長になった画面に、道路の向こうから歩いてくる子供二人をとらえた映像が出て、あ、と思った。これは普通の映像ではない、と思って、もうチャンネルを動かせなくなった。これは映画なのだ、とその明らかにフ…

・ふとした拍子で、なぜか漱石の「我輩は猫である」を読み出したら、面白くてずるずる読んでしまっている。別段古典故の深さだとか、流石漱石、と言いたくなるような複雑な何事かを発見している、とかいうのではまったくない。車屋の黒のふんぞり返ったはな…

コバヤシ画廊でScale-Out 2008展。参加作家の多田由美子氏からお誘いいただいて、オープニングにお邪魔した。多田氏の作品に関しては先の個展の時に(参考:id:eyck:20080327)、完成度の高さがやや画面を硬くしているな、と感じたのだけど、今回の出品作に…