アメリカの「自然」(セザンヌが消した):メトロポリタン美術館展

東京都美術館で年末に「メトロポリタン美術館」展を見てきた。僕が改めて認識したのが、「自然」こそアメリカにとって重要なアイディンティティだったのだな、ということだ。広大な大地、空、荒々しい気候、野生動物、森林、海洋、湖沼といったモチーフは「アメリカ」における精神で、こういう事は日本に居ながら実感する機会はなかなかなない。自然=世界、とされた「世界」が、メソポタミアなども含みながら幅広く西欧であることも押さえられるべきで、要はヨーロッパの数千年の芸術文化の発展のゴールにアメリカを置くという構成だ。


第1章「理想化された自然」では最初クロード・ロラン「日の出」をお手本に、トマス・コールやアッシャー・B・デュランドがアメリカ人としてアメリカの大地を捉えている。なんで17世紀の絵画を19世紀に反復せねばいけないんだ、と言ってもせんない事で、歴史がない場所で歴史は再構成されなければならない。冒頭のクロード・ロランが、代表的な神話に基づいた港湾の情景ではなく、内陸の山野の作品であることは覚えておいて良い。この章の作品としてはレンブラントの「フローラ」が気になる。不遇となっていた時期の作品で、タッチも構成もやや不安定さを増しているが、最晩年ほどの崩れではない。絵画としては率直に言えば中途半端であり、あらゆる意味で傑作ではないのだが、とても印象深い。ビックネームといえばプッサンだが、けして傑作が来ているわけではない。むしろ紀元前ギリシャテラコッタ「凱旋車に乗ったエオスを描いたレカニス」の方が見ごたえがある。


第2章「自然の中の人々」で断然目立つのがゴーギャン「水浴するタヒチの女たち」で、紙に描かれた油彩の質感が非常にフラットに見えて力強い。背景の水流の溢れ出るポイントが背を見せた中央女性の胸に重ねられた意図的な構成で面白い。またドラクロワの「嵐の中で眠るキリスト」は小品だけれどもドラクロワの色彩に対するセンスがとてもよくわかる。「嵐の中で眠るキリスト」の色彩に呼応しているのがティントレットの「モーセの発見」で、色彩だけでなくタッチにも対応関係を見たくなる。第2章でも「アメリカ」はひっそりと、しかし重要な箇所(章の最後近く)にある。ミレーの「麦穂の山・秋」、ゴッホの「歩きはじめ、ミレーに拠る」が並んだ壁面のわきに、トマス・エイキンズの「クイナ狩り」がある。エイキンズの作品は工芸的で、ゴッホの近くにあるのが気の毒なくらいだが、構成としてはゴッホの後に位置づけることでいわば「オチ」を担当していることになる。


第3章「動物たち」第4章「草木と庭」の古代エジプトの猫の彫刻、イラン、ギリシャ、イタリア、ドイツなど工芸品も、重要な伏線になっている。これらの「ゴール」がニューヨークのティファニーの工芸品だというストーリーだ。実際ティファニーの製品は洗練されていて、ゴッホの近くのエイキンズのような肩身の狭い感じはない。僅かにあった絵画としてルドンの「中国の花瓶に活けられたブーケ」はルドンらしい色彩が感じられて、宝飾品と並べるというのは安易ではあるけれどもまぁ気持ちはわかる。三菱一号美術館の大味なグラン・ブーケよりはずっといい作品と言える。


第5章「カメラが捉えた自然」には、絵画や彫刻、工芸品がオーソドックスに並んでる会場の中で、やや唐突に「写真」が配置される。この唐突さにこの展覧会の方向が露呈している。絵画や彫刻に比べ新しい写真というメディウムはそのテクノロジーを芸術として定位させるのに「アメリカ」を必要とした、という事になるのではないか。フランスのグレイが撮影した「海上の帆船」は右下のサインを含めて強い絵画性を保持しているが、アメリカ・スタイケンの「大きな白い雲、ジョージ湖」を経てスティーグリッツ「切妻とリンゴ」ではいわばアメリカ性と写真の自立が重ねられている。現代アメリカの写真の代表としてリー・フリードランダーの「ニューヨーク州タリータウン、ロックウッド」杉本博司「ボーデン湖、ウットヴィル」がある。中でも杉本作品の空虚さ(キャプションがなければその対象はほぼどこでも同じ)は際立っている。


第6章「岩と山」。岩と山が、アメリカにおいて重要なのだということが端的に示されている。ゴッホクールベといったマスターを経過して成立したのが「国民的画家」であるホッパーとオキーフであると第6章は言っていると思う。今回出品された作品の中で、明快にヨーロッパの古典や近代絵画に比肩しうるアメリカの作品は写真の他ティファニーの商品、そしてホッパー+オキーフくらいのものだ。それだけに第6章の二人は目立って見える。いわば興行としての目玉はゴッホの「糸杉」だろうが、展覧会の眼目はホッパー、オキーフにあるのではないだろうか。僕は見栄でもはったりでもいいから、ここにおく彼らの作品は、もっと大作を持ってくるべきだったと思う。


作品としては、やはり「糸杉」の異常性はあからさまで、ブツブツと、状態のよくない絵の具のような表面が、糸杉のある風景を視覚的というよりは触覚的に目に「触って」くる。「歩きはじめ、ミレーに拠る」が、まだ目による統御をかろうじて維持しているのに比べ、「糸杉」ではゴッホは筆がそのまま指先になったかのような描きを見せている。ルソー「ビエーブル川の堤、ビセートル付近」があるのは大事で、ヨーロッパ的理性あるいは高度な芸術に対し「素朴」な精神が、そのヨーロッパにおいても見られるのだ、というメッセージになっている。ルソーに呼応してくるのが7章で出てくるクエーカー教徒のエドワード・ヒックスで、ルソーは実は伏線だと思う。バルテュスの、山野の風景の中に女性が杖とともに横になっている「夏」があったのは驚きで、恐らくルソーを置いたのと似たような意図があったのではないかと思うのだが、言うまでもなくバルテュスの画面はまったく「素朴」ではない。杖を含めはっきりと性的なイメージをもった絵画で、会場の中で浮いている。展示として効いていないが面白い絵だ。


最後の第7章も作品の「並べ方」に注意していい。カナレットの向いにターナーを置いたりするのはわかりやすいし、ヒックスの絵がルソーを想起させるのも面白い。モネ、セザンヌヴラマンクと来た先にホーマー「月光、ウッドアイランド灯台」を置くのも意図は伝わる。しかしセザンヌ「レスタックからマルセイユを望む」が傑作すぎてほかがどうでも良くなっている。空、水平線上の対岸、海面、海面左手の中景の陸、手前の地面とそこにある家という積層構造に手前の家から伸びる煙突の縦構造が画面の力動の圧力構造を緊密にしている。まるで絵自体がひとつの地層のようにあって、これに比べると隣のモネが実にふわふわとした感覚的なものでしかないのがわかる(「モネはただの眼にすぎない」)。ここまで書いてきて最後の最後に言ってしまえば「レスタックからマルセイユを望む」を見ることができただけでこの展覧会は意味があったのだし、アメリカの自然が云々というイデオロギーも棚上げして良いと思う。

追記

まったく関係がないけど、上田和彦さんとの「組立-転回」の対話を更新しています。


今回は三菱一号美術館でのシャルダン展について。このシャルダン展は、とても良い展覧会でしたので、会期が迫ってますが是非。対話中でも語られていますが三菱一号美術館に寄託されているセザンヌも展示されていて非常に効果的に機能しています。また、「おまけ」がついていて、僕がART TRACE PRESS02号に寄せたVOCA展評への上田さんのコメンタリーから美術の市場や批評についても話しています。