反エフェクトとしての演劇

・昨日の絵画メモは、グリーンバーグの「モダニズムとは、エフェクトではなくプロセスだ」から。

・で、唐突に僕が学生時代にやっていた演劇のことを思い出す。

・それがどんなものだったかと言うと、
●演出家を置かず、役者だけで舞台を作る
●シーンごとにその場面に出ていない役者が、そのシーンを演出していく。
●脚本家を置かず、既成の上演台本も使わず、役者が各自で脚本を書く。
●設定やキャラクターが一貫していない、短い台本群を、パッチワークのように繋げていく。
●しかし、コント集のようになることを避けるため、パッチワークの各パーツを繋げる「ゆるい統一的世界」を、役者の合議で考えていく。
とかいう感じ。

・一般に、演劇に置いては脚本と演出が、超越論的な視点から演劇全体を統御する。その中で役者が場に瞬間的なものを入れ混むが、演劇全体の「意味」や「物語り」は、脚本とそれを解釈する演出家の手に握られていて、観客は、役者の突発的・瞬間的な力に牽引されながらも、脚本および演出の制御する「意味」に帰着する(中には「演劇において大切なのは役者だ」というメッセージでこりかたまったホンで舞台をがんじがらめにしてるタチの悪いものまであった)。

・僕達は、役者から失われた「意味」や「物語り」を役者の手に取り戻すために、演出家と(統一的)脚本を破棄した。その結果、そもそも取り戻すべきだった意味や物語りは解体され、キャラクターは散乱した(小脚本群の集まりでは、各シーンごとにキャラクターや設定がまったくちがうものになり、役者は1人で10個近くのキャラクターを演じわけることになった)。

・同時に、僕達は「小さな物語が並列的にばらばらに点在している」という状態にも強い違和感をもった。そこで、各シーンを包括する「メタシーン」を、全員の話し合いによって決定し、全員でそのシーンを作り上げていった。例えば各シーンを繋げる設定としては、ある軸となるキャラクターをもった役者群が、洞くつなどの異世界、あるいはパラレルワールドなどに出入りするたびに、各小脚本に基づく各シーンが展開し、基底となるキャラクターとはまったく別個の役を、その度に演じた。

・この「メタシーン」は、メタと言いながら、極めて支配力の弱いものだった。時間も短く、端的に言って「小さな物語が並列的にばらばらに点在していることを拒否する」ことを示すポーズとしてしか機能せず、観客にも「これは各シーンを繋げるための、とりあえずの素振りなのだな」ということがあからさまに分かる形で提出された。

・ここで僕達は、「意味」や「物語り」を効果的に観客に見せるエフェクトとしての演劇ではなく、意味や物語りが、超越的な視点を拒否した瞬間に細かい破片になり、それがちらちらと明滅しはじめれる、プロセスとしての演劇をやっていたのだと言えると思う。

・一般に、演劇はエフェクトだと言われるが、もちろんそうでない演劇というのは可能なのだし、逆に、一見プロセス的と言われる作品でも、実はエフェクトである場合がある。だから、そんなエフェクト的な作品(絵画でも)を目にすると、僕はつい「演劇臭い」と思ってしまうのだ。

(そんな僕達の「反演劇的演劇」を準備したのは、当時支配的だった第三舞台でも夢の遊眠社でもなく、山の手事情社とかだった。第三舞台夢の遊眠社は、その本や演出がどんなに超越論的なものを否定する内容を歌っていたとしても、主宰で脚本家で演出家である鴻上尚史野田秀樹が全てを統一的に支配していて、僕らにとっては全く受け入れられなかった。しかしまぁ、山の手事情社のきらめきは一瞬で終わったのだけど、そもそも演劇なんて瞬間的なものなんだし、あんな過激な舞台が永く続く方が不自然だとは思う。)