お客様は神様です。

あのな、お前らな、昨日だけでどれだけアクセス数があったと思ってるんだ。ログに残ってるのだけで50HITだぞ。間違えるなよ。少ないと言ってるわけじゃないんだよ、そこの1日100も200も客呼んでるはてな野郎。このページはな、だいたい1日平均7-8HITあるかないかなんだ。つまりな、この世界に存在しないも同然のページなんだ。いいんだ。いいんだよ。それがお似合いのページなんだよ。どうせ訳わかんない日曜画家の脳内妄想が貧相に書かれてるだけなんだからな。それがな、ちょっと及川光博と書いただけで50HITだぞ。思わずアクリル絵の具ついた手で鼻ほじっちゃったよ。おかげで鼻の穴真っ青だよ。しかしすごいな、はてなキーワードリンク。そんなにキーワードリンク巡りして楽しいのかよこのはてな野郎共。お前らはな、せいぜいリファレンス引っ張ってコメントつけあってグルーミングしあってりゃいいんだよ。ぜんぜん羨ましくなんかないよ。俺なんかな、寂しさのあまりついコメント機能OFFにしちゃったんだぞ。わかるかその時流した涙の味が。

おこしいただきまことにありがとうございます(額を地面にこすりつけるように土下座)。

もう当分書かないであろう「マンハッタン・ラブストーリー」、ミッチー以外の役者について。
5話での小泉今日子の、''王子様との熱川温泉1泊旅行にはしゃぐ30女''という、スラップスティックな演技のはじけっぷりは、僕が知る限り過去小泉今日子が演じたどんな役よりもすばらしいものだった。この人は、映画といいドラマといい、根拠なく「純粋な女の子」という役柄をやらされることが多かった気がするのだが、もちろん小泉今日子にそんな演技ができる筈がない。もともと平塚でヤンキーだったという噂のある彼女には、今回のようなやさぐれた人物像のほうが相応しいに決まっている。

だから、今回のタクシ−ドライバー役に、過去不倫騒動で一流会社を退社した過去があるという設定は、むしろ作品世界の要請ではなく、作品の外の条件「小泉今日子は(元)アイドルだから、純粋な女の子の役しかやれない」という束縛を解くための、極めて現実的な仕掛けであって、タクシ−ドライバーの行動に過去のトラウマが原因としてある、みたいなことにはなっていないのだ(実際、第1話以降、ほとんどこの設定には触れられていない)。

逆に、中途半端な「演技力」で「リアルな人物像」を表現してしまいかねない女性脚本家役の森下愛子は、この「マンハッタン・ラブストーリー」の中で一番つまらなく、重い演技をしている。反省的な部分を顧みずにスピードとテンポが勝負になっているドラマの中で、役者慣れしている森下愛子は、妙に上手くて、そのぶん退屈なのだ。回想シーンで怪演する猫背椿がいなければ、悲惨なことになっていたとしか思えない。というか、もう猫背にしろ。あの脚本家役は。

猫背椿の演技はすばらしい。もちろんこれは逆説的な言い方なのであって、猫背は一切近代的な意味での演技*1などしていないから光っているのだ。猫背演じる「回想ドラマの女」は、劇中劇の中で、テンションとは違う''ボルテージ''だけを発散する。紋切り型の設定と身ぶりが猫背の不必要に強いボルテ−ジに支えられて、誰でも笑うことができる=誰でも「乗る」ことができる開放系と化す。
「回想ドラマの女」は、仕事に失敗し、恋愛に失敗し、その度に侮辱され、路上にはいつくばる。それを高いボルテージで演じていく過程で、猫背椿個人の自意識は壊される。そして安直な回想シーンのベタさが、誰でも巻き込みうる開放系として機能している。

この効果は、マンハッタン・ラブストーリー全体にわたって見られる。安易な設定、単純なキャラクター(人格タイプ)、個々のシーンの戯画的演出は、どれをとっても敷き居が低く、例えシリーズ途中、番組途中から見始めた観客でも簡単に乗れる平易さがある。が、一つ一つの安直な要素を、無駄に高いボルテージ(役者のオーバーアクション、構図(カメラワーク)の極端さ、CGによる無意味に派手な効果、無駄を排した脚本と高速な場面展開)で支えることによって、一度乗せた観客を捕らえて一気にドライブさせていく。このような展開は、TVドラマというフォーマットだけに可能なのかもしれない。だから、万一この作品が高い評価を得手も、絶対に映画などに「昇格」させれるようなことはないだろう。マンハッタン・ラブストーリーは、TVドラマにしかできないことを、TVドラマの枠組みのギリギリのところで試しながら作られているドラマなのだと思う。

*1:近代的な意味での演技とは、自己の存在を前提にして、その自己を微分化することで解体し、脚本の中にある登場人物(他人)との接点を作り出して、自己と自己でないものの間に身体を置くことによって、閉じた自己を開放系として開く。そのことによって、観客は解放された役者に侵入することができるようになり、その過程で観客もまた開放系となる(このような環境を作り出す役者の精神的強度をテンションと呼ぶ)。しかしこの開放系は、確立した自己を壊すというカタルシスによって支えられているので、そもそも自己(主体)というものが希薄な環境では、そういった役者の自己解体(=自己表出)が「お前(観客)の自己を差し出せ」という圧力にしかならなくなり、急速に「自意識のファシズム」化する。