拭いさられて浮かぶ誘惑

ギャラリー山口B1で土方由美子展を見る。また山口かよ、とのツッコミはさておいて。最近京橋界隈の画廊はいいんですよ。
誘惑的だと思った。特に引き込まれたのは、うねるタッチで描かれたキャンバス上の油絵の具の中で、布かなにかで拭われた、ほのかに明るい部分。何がこんなに僕の目を引き付けているんだろう?しばらくキャンバスの前に立って、一生懸命考えた。

土方由美子の絵画は、極端に言えば目新しいところは何もない。サイズ、絵の具層、色彩、どれをとってもオーソドックスだ。特徴的に見える「拭われた部分」だって、実は技法的にはありふれている。それはあからさまに「単なる絵画」であることを宣言している。だが、「単なる絵画」であることが、こんなに悦ばしい経験をもたらす場合があることを示している土方由美子の絵画の前では、どんな「新しさ」も、貧しいはしゃぎ声にしか感じられないだろう。
貧しい新しさから一番遠い言葉は、豊かな成熟だ。

もちろん、成熟という言葉は、作家から離れた作品自体から感じられるものだ(作家プロフィールはここ。作品は昨年のものhttp://gaden.jp/yamaguchi/2002/020415.htm)。端正な抽象画として描かれている作品は、はっきりと近代絵画の歴史をふまえられている。モネやセザンヌポロックやデ・クーニングなんかと対話するように描かれた絵画は、決して個人の独り言に閉じこもってもいなければ、映像や印刷メディアに媚びてもいない。開かれた、形式的な仕事だと思う。そして、そのように先行する諸作品と対話しながら、自らの立ち位置を確かめるような仕事、絵画に対する批評を含んだ絵画は、作家の年齢に係わらず成熟を感じさせると思う。

成熟しているということは、けして「完成」してしまって、動きやゆらぎがなくなってしまったということではない。それは老化なのであって、土方由美子の絵画は、小児的なイラストレーションからは切り離された場所で、確実に生きて、いまの空気を呼吸している。
その息遣いを感じさせるのが、僕が引き付けられた「拭われた部分」だ。おそらく一度、他の箇所と同じような密度で描かれた画面の一部を、たぶん柔らかな布で拭き取り、薄い油膜を残してキャンバス地を覗かせている。絵の具を積み重ねることで、完成度を高めながらも不活性化し、動きを止めようとしてしまう画面を、改めて展開させていく力を、そこに感じる。

間違えてはいけないのは、この一度構築された絵の具を拭いさる工程が、単なる破壊ではないことだ。そんなネガティブな視線で、この作家は世界をみていない。その、絵の具が取り去られる作業は、「まるで絵の具を乗せていくかのように」行われている。あくまで画面を構築する方法論のひとつとして、その過程はある。
だから、絵の具が失われたところに、喪失感も欠落感もない。きびしく測られた、確かな空白が描かれている。不幸ぶることもなければ妄想じみた夢に逃げ込むこともない。幼稚さを偏愛するこの国で、そんな成熟は驚くくらい貴重だと思う。そしてその成熟が、老化とは無縁のパワーに基づいているからこそ、その絵画は誘惑的なのだと思う。

info
土方由美子展
〜12月6日まで
ギャラリー山口B1
住所 ・104-0031 東京都中央区京橋3ー5ー3 京栄ビルB1F
電話 ・03-3564-6167
時間 ・午前11:00-午後7:00 最終日土曜日5:00まで
地図 http://www.jade.dti.ne.jp/~g-yama/guide/gui_map.html