スポーティな装置としての絵画

昨日はギャラリーアートポイントに古谷利裕展を見に行った。自分の個展が近いのに、そんな時間あるのかとか言われてしまいそうだけど、そんな時だからこそ見ておきたい絵というのがあって、それが他ならぬ古谷利裕展と今東京都美術館に来ているモネ(http://www.tobikan.jp/kikaku/index.html)なんだな。

僕は以前、「絵画を見るというのは、絵画を描くように見ることなんじゃないか」なんてことを書いたけど、古谷利裕展の会場にあった作品群は、本当に、ダイレクトに「絵画を描くように」絵画を見てしまうという体験をさせてくれるものだった。

けして大きくはない画面に、アクリル絵の具が点々と(転々と?)散らばっている。
散らばっていると言っても、それは一目見て、抑制された技術と絵画の経験(見ることと描くことの)に基づいた、複雑で洗練されたもののように感じられるので、だらしないところはどこにもない。
なんだか高度な音楽の演奏を聞いているような、リズミカルなものが感じられた。

でも、そのリズムというのが、「画家が筆を運ぶ」リズムなんじゃないかと思い付くと、僕は急に上記のような「絵画を描くように絵画を見てしま」っている気がしてきて、ちょっと軽く動揺してしまったのだ。

画面上に展開する、絵の具から絵の具へ、目がステップを踏むように、いや、率直に言えば「自分がその絵の具をおいているかのように」見始めてしまう。こんなふうに絵を見るのはなんだか邪道というか、距離感を失いすぎなんじゃないかと不安になって、慌てて後ろに下がってみたのだけど、画面をみているかぎり、そのリズムが消えることがない。

よくペインタリーな絵画を評する言葉で「作者の身体性が感じられる云々」といった決まり文句を見かけるけど、そういうのとは全然違う。古谷氏の作品は「観客の視角を運動させる」スポーティな装置みたいだ。作家の身体性とは切り離されて、観客の視角を駆動させるような作品は、むしろ古谷氏を消去している。

ちょっとよぎる思いがあるのだが、もしかしたら、この古谷利裕展の絵画というのは、絵画を描いている人にこそ、ダイレクトに届く絵なのかもしれない。そうだとしたら、かなり間口の狭い絵画なのかもしれない。…いや、そんなことはないか。絵を描いたことがない人なんて少ないはずだもんな。

info
古谷利裕・展
2月7日(土)まで/日曜日は休み
中央区銀座8-11-13エリザベスビルB1
ギャラリー・アートポイント
Tel 03-5537-3690
12:00〜20:00(最終日は17:00まで)