記憶が生き直される

ギャラリイKで、永原トミヒロ展を見てきた。
長い影をひいた公園のベンチや水飲み場が描かれた画面。どれも色調はブルーグレーで、なんだか、夜になる直前というか朝が来た直後というか、そんな時間帯の光線加減。人の姿はないんだけど、人の気配はかすかに残っているような、微妙な温度を感じる。あったかくもなく、寒くもなく、という感じ。

いきなり言ってしまうけど、僕はいわゆる「映像的」な絵画が好きじゃない。なにも意味ありげに絵にしたてたりしないで、素直に写真を撮るなり映像を撮るなりすればいいじゃないか、と思ってしまう。僕達の世代では、わざわざ絵の具と筆で絵を描いたりするより、カメラのシャッターを切ったりビデオを回したりするほうが遥かにリアリティがある。そういった感覚を、わざわざ絵にするなら、相応の根拠と手続きがいるはずで、そういう基礎がない「映像的絵画(写真を見て描いたりしてるやつ)」は、単に映像に従属的で、写真や映像としてみれば面白くもなんともないものを、絵にすることで「意味深に」見せようとしてるだけだったり、逆に絵としてはまったく無内容なのに、映像「風」にすることで「現代的」に見せてるだけだったりするものが大半なのだ。

ところが、永原トミヒロ氏の絵は、ぱっと見、いかにも「映像的」なのに、なぜかイヤじゃない。長い影をひく公園のベンチだなんて、いかにも8mm映画っぽくて、それだけで俗っぽい郷愁にひきずりこまれそうだけど、なぜかそれを一歩手前で踏み止まらせる何かがある。その秘密はなんだろう。

ものすごく簡単な言い方になってしまうのだけど、その秘密は、永原トミヒロ氏がちゃんとモノの形を描いてるからじゃないか、と思った。ベンチならベンチをしっかり見て、それを自らの手で彫刻して改めて作り出すように描いている。水飲み場も、カーテンも、「水飲み場っぽく見えればいい」とか「カーテンっぽく見えればいい」と思って適当に描いたりしていない。画面にあるものを、丹念に、あらためて画面の中で作り直すように描いている。

永原トミヒロ氏が、これらの絵を、現実の風景を見て描いているのか、写真を見ながら描いているのかはわからない。でも、いずれにせよ、それらの素材は、純然たる素材となっていて、永原トミヒロ氏の手で、画面の中に生まれ直している。それだけの愛情がかけられているから、永原氏の絵画は「映像っぽい」ことも「絵画っぽい」こともなく、単に「絵画」となることができたのだと思う。

僕が上で批判した「映像的」な絵を描くひとは、写真や映像を無闇に信用していて、それを絵に移す時、油断するのだ。写真をもとに絵をかけば、それだけで「写真ぽく」「本物っぽく」描けると思っている。だから、絵筆を丹念に運んだりしないで、なんとなく、適当に写真に写った「かたち」をなぞる。だから、描かれたものには嘘っぽさしかのこらない。

永原トミヒロ氏は、そんな安易な絵を描いていない。風景が、記憶が、生き直されるように、生み直されるように、丁寧に絵を描く。

記憶が生き直される、そんなことが可能なのだろうか?永原トミヒロ氏の絵を見ていると、それが可能な気がしてくる。記憶は過去の物で、それを追想することは後退でしかない。かといって、新しいもの、見たこともないものを追いかけ、場合によっては捏造するようなことは、もう人を傷つけることしかしないんじゃないかということに、僕達はうっすら気づいている。今、僕達に残っている道は、記憶を生き直すことだけなんじゃないか。そう預言したのはキルケゴールの「反復」という本だけど、それを実践するというのはとても難しい。

永原トミヒロ氏の絵画には、その方法のヒントになるものが隠れている。もちろんそれは解答そのものでもないし、危ういところもたくさんあると思うけど、こういった試行錯誤が、今、行われているということを肯定することにしか、希望も可能性もないんじゃないかと思う。

info
ギャラリイK推薦作家展『知性の触覚2004それぞれの他者』
「永原トミヒロ展」
開催中〜3月13日(土)
11:00〜19:00 (最終日は17:00まで)
ギャラリイK
http://homepage3.nifty.com/galleryk/
map
http://homepage3.nifty.com/galleryk/second/map/frameset_map.html