「六本木クロッシング」とは何か(3)
今度こそ最終回です。もう「六本木クロッシング」には付き合わないぞ。
●「面白さ」による味方獲得ゲームの疲労
「面白い美術」の浸透を、ここでは「美術の水平化」と呼びたいと思います。先日の文章ではネガティブに書いてしまいましたが、もう少しポジティブな言い方をすると、こういった作品達は、観客との関係性を取扱い、関係性に作用するために「面白さ」を必要としているのです。
全員が見上げるような大きな理念(垂直性)が喪失してしまった後、各個人がバラバラに孤立している状態に働きかけ、お互いの関係を繋ぎ直し、操作することで、水平な関係の編み目を再構成することが目指されていると言えます。ですから、「面白い美術」の出現は、いわれのないことではなく、相応の理由があると言えるでしょう。
しかし、こういった、横のコミュニケーションのゲーム的操作を徹底しようとすることは、誰もがコミュニケーション可能であり、誰もが交代可能な状態を前提としています。そこには決定的に重要なものはなく、ただ変数となるだけの「小さな人々」が、共有可能なゲームとゲームの間を、ただ流浪していく他はありません。
こういったゲームとゲームの間の流浪(仲間と仲間の間の流浪)は、個人に極端に高い負荷をかけます。その負荷とは、「(仲間と仲間の間の)移動可能な能力」で、これは高いコミュニケーション能力の獲得といった次元ではすまなくなり、単に「一人がち」の状態すなわち「誰からでも必要とされる能力」の獲得と誇示にまで及びます。その一端が「面白さ」なのです。関係性を操作するための手段だった「面白さ」が、仲間獲得のための目的になって行きます。
こういった状態は、2000年代になって急速に拡大しています。「面白さ」「面白い美術」は、当初目指していた「既に機能しなくなっていた垂直性からの脱出」を果たした後、一部に成果を残したものの、すぐさま「移動可能な高い運動能力の獲得」から撤退し、「いかに仲間(面白がってくれる観客)を増やすことができるか」というゲームに変化していってしまいます。そこでは共同体から共同体へ、素早く移動する能力はないがしろにされ、むしろ「共感できる仲間」を効率的に獲得し、囲い込んでしまおうという動きとして顕在化します。
「六本木クロッシング」において、ポジティブな意味での「面白さ」を目指しているのは、成功/不成功は度外視してなるべく多くみつもる努力をしても、フジタマ、深澤直人、東京ピクニッククラブ、会田誠、ニブロールといった作家群くらいです。あえて名指しするとヤノベケンジ、生意気といった作家は、明らかに「味方の獲得」を目指しており、他にも作家の意図に反して「味方の獲得」ゲームと化している作品が散見されます。
●らせんの垂直性の獲得へ
かといって、何度もくり返すように、加藤豪、木下晋といった作家に見られるかつての超越性への復帰は、すでに無効になっています。また、社会的な「正しさ」の立場から作られた渡辺睦子、坂茂といった作家達の作品も、「社会的な正しさ」という超越的立場から、結果的に「賛成者の獲得」へと向かってしまう危険性を孕んでいます。
では、ヒントはどこにあるのでしょう。それは、らせん階段のように、水平性=関係性の「断絶」をたどることで、緩やかに上昇(あるいは下降)していくような作品だと、とりあえずは言えると思います。「同じ面白さ」を共有する仲間ではなく、「面白さのズレ」に可能性を見い出すような方向性です。ここまで書いてくれば判明すると思いますが、そこで重要なのは「ズレ」であって「面白さ」は手段です。すなわち「面白さ」でなくとも、「記憶」や「歴史」や「視覚体験」において「ズレ」を発生させるような作品が、とりあえずの手がかりとなると思えます。そういった可能性を感じるのは、畠山直哉、池田謙、高嶺格、村瀬恭子といった作家達です。
「子供」であることはあまりにも弱く、面白さの支配はあまりにも危険です。そういった事態を明確に意識し、ピリオドを打ち、それ以外の可能性を見ることで、初めて「六本木クロッシング」は意義ある「美術展」になるのではないでしょうか。