「美術」の優位・東京都現代美術館 完全レビュ−(1)

「完全レビュ−」なんてバカはもうやらんぞ、と思ったんですが…普通のレビューの書き方忘れてしまいました。MOTアニュアルは会期も終わってしまい、すっかりタイミングを逃してしまいましたが、書いちゃったので、載せます。

MOTアニュアルに関しては、まず何よりもこの東京都現代美術館による若手作家発掘?企画展が、まがりなりにも続いていることを評価したいです。なんてったって、最近は「ジブリ展」とかやっちゃう東京都現代美術館ですよ?このアニュアル展の同時開催が、押井守監督のアニメ「イノセンス」のプロモーション「球体関節人形展」ですよ?石原都知事による財務体質改善命令より、「悲惨」としか言えない展開を辿っているMOTですが、ズタボロになりながらも、今回のアニュアル展によって、最後の意地は見せた感があります。ほんとに最後にならなきゃいいけど。

結果的に、このアニュアル展を見た全体の印象としては、「焦点はしぼりきれていないものの、ま、そこそこ」といった感想だったのですが、そんな「可もなく不可もない」若手の現代美術展でさえ、今世の中で「面白い」といわれているものより遥かに素晴らしいということをハッキリ教えてくれたのが、先述した同時開催の「球体関節人形展」です。

この「球体関節人形展」。チケット売場から行列してます。会場内の人工密度はアニュアル展の10倍以上です。みんなそこそこ楽しんでいるみたいです。カタログもグッズもよく売れているようでした。が、しかし。内容に関してはヒドイものでした。あえて言いましょう。クズであると。
とにかく安易でチープな「退廃」「耽美」「生と死」の大バーゲン。ドつきでつまらないです。あのイージーな読み捨て作家の澁澤龍彦を、さらに水道水で100万倍に薄めたようなくだらなさで、ヒマ潰しにすらなりません。

いちいち文句をつけるのもバカバカしいのですが、あえて名指すなら、あの四谷シモンの弛緩ぶりはなんとかならないのでしょうか。「人形」というからには、人間から人体を強奪して解体し、まったく違うレベルで再構成するという程度までもってきていさえすれば、少なくとも「見せ物」にはなるんじゃないかと思うのですが、なんとなく適当に「文学的」ムードを漂わせることに溺れているだけで、中身ゼロです。
※4/9に文章の1部を削除。

MOTアニュアルに移りましょう。
北島敬三氏は、すでに身体的成長点を過ぎた、成熟した男女を断続的に撮影してポートレートにしています。幼児的な作品がもてはやされがちな状況下での、こういったアプローチはとりあえず好感が持てます。「老いて行く予感」を孕みはじめた「大人」というものの、若年期とは違う揺らぎが見てとれます。しかし、展示で、同一人物を並べる手法と、ランダムに配置する手法を対の壁面でそれぞれ行ったことに、どんな意味があるのでしょう。個人的には、妙な趣向を凝らすことなく、同じモデルを淡々と時間順に並べたほうが効果的だったと思えます。

内海聖史氏の作品は、インスタレーションにかぎりなく近付きながらも、なお「絵画」に踏み止まっていると思います。その展示と作品の巨大さは、観賞者に「オブジェクトとしての支持体(キャンバス)」を感じさせないための手法だと思えました。抽象表現美術のオールオーバーな絵の具の面が、結果的に「キャンバスというモノ」を見せてしまったことに対する、愚直なまでの試行錯誤として、貴重です。要するに、視界を覆ってしまうような大きさの絵画を、観客に半ば強制的に至近で見ることを強要したり、凹型になっている壁面に、キャンバスの「厚み」や「へり」が見えないように壁面サイズぴったりの大きさで絵を描いたりすることによって、絵画それ自体を浮き上がらせよう、という試みです。

モダニズム絵画の極点のような、単色で塗りつぶされたような絵画を描いていたステラが、結果的に浮かび上がった「キャンバスというモノ」から逃げるようにシェイプド・キャンバスを使ったりした後、絵画は「キャンパス問題」には触れない(かっこに入れる)、という消極的解決しかはかってきませんでした。そんなところに現れた内海聖史氏のドンキホーテのような挑戦は、成功してるとは言い切れないものの、絵画に勇気を与えていると思います。

後半も書いてますが、今日はここまで。