ボードレールから藤枝晃雄・椹木野衣・岡崎乾二郎まで(最終回)

岡崎乾二郎氏の「経験の条件」において注目すべきは、書かれていることではなく書かれていないことです。この本はマチスに始まり、ブルネレスキの建築、ブランカッチ礼拝堂壁画、多声音楽と多様な分野の作品を分析してゆくのですが、そこでは見事なまでにアメリカの影がありません。「経験の条件」という題の前に「ルネサンス」と冠せられていることから、その記述の内容がヨーロッパの諸芸術に限定されているのは、当たり前といえばあたりまえなのですが、そもそもそういったフレ−ムを岡崎氏が選択し、この時期(アメリカの9.11同時テロのわずか2か月前)に出版されたという事実が、結果的に重要な意味を帯びているように思えます。

この本では、現在もっとも我々が参照すべきは、20世紀のアメリカではないということが「裏声」で語られています。マチス、マザッチオ、ブルネレスキ、ダンテ、ピエロ・デッラ・フランチェスカといった固有名詞が次々と並べられていく様は、まるで岡崎氏の視界の中にはアメリカなどないかのような印象を与えます。全体を一気に見渡す事の不可能性、異なる次元の無限のズレが生み出す複雑な「知覚の運動」こそが「芸術という経験」の条件なのだと語る岡崎氏は、わざわざ否定するのではなく、記述しないという形で、アメリカという存在を切断してゆきます。

そういった「無視」が必要とされるのは、もちろんアメリカという存在が大きいからにほかなりません。まずこの本は、1950年代にアメリカで宣言された「絵画の死」を否認するという動機から書かれていると思われます。グリーンバーグの批評が実体的に読まれ、影響し、絵画が「平らな面」というミもフタもない状態に囲われてしまい「完成」してしまったという神話を崩すために、岡崎氏は絵画の「多声性」を救出しに向かいます。その手付きの鮮やかさがもっとも鮮烈なのがブランカッチ礼拝堂壁画の分析なのですが、それ以外の部分でも、この本を通して何度も繰りかえされるさまざまなヒット・アンド・アウェイ自体が、全体で多声的な構造となるような記述がなされています。

このような形でアメリカを切断していこうという行為の背景に、椹木氏の「日本・現代・美術」や「日本ゼロ年展」があったと考えるのはかんぐりというものでしょうか。いずれにせよ椹木氏の指摘を待つまでもなく、そもそもその出自においてアメリカ抽象表現主義の深い影響下にあった岡崎氏は、自らの中の「アメリカ」の痕跡に十分意識的だったと思えます。実際、たとえモチーフとしてアメリカが一切でてこなかったとしても、その文体、その分析の方法論自体には、色濃くアメリカが刻まれていると思えます。

柄谷行人氏に影響されたと思える椹木氏の「日本・現代・美術」の文章よりも、むしろ岡崎氏の「経験の条件」の文章の中にある「アメリカ」の匂いは、強烈です。この本の文章の母体には、グリーンバーグ、フリード、クラウスといったアメリカの美術批評家の文章だけでなく、アイゼンマン、ロウ、ベンチューリといったアメリカの建築家たちの文章があると思えるのです。そのことは先述した「モダニズムのハードコア」において、岡崎氏がロウの「コラージュ・シティ」にシンパシーを感じている事を示す対談部分にもうかがえます。

そこまで深くアメリカの存在を意識しながら、しかし岡崎氏は、なおあえて「アメリカ」、自分に刻まれたアメリカを蒸発させていく方向を選択しました。この選択が、もちろん椹木氏の言う「アメリカによる文化的レイプの忘却」を意図しているわけではないことは、強調されるべきでしょう。そこにはアメリカを「止揚」しようという意志があるのだと思えます。実際、ニューヨークの911テロとそれに続くアメリカの軍事行動以降、美術家としてまっ先に意見を表明し、反戦行動まで起こしたのは誰有ろう岡崎氏です。また、失敗に終わったにせよ、柄谷行人氏の「資本主義を止揚しようとする運動」NAMに関わり、短い期間ながらも活動したという事実を忘れるべきではありません。

では、日本の美術は「アメリカを止揚する」方向に具体的にむかったのか。そう単純ではないことは岡崎氏の参加したNAMが短期間で瓦解したことを見れば明らかです。同時に、村上隆氏は、「アメリカでの成功」以降、あえて日本での活動を止めることなく、二正面同時作戦を続けながら、ある困難に直面していることも事実です。椹木氏は「日本・現代・美術」以降、「爆心地の芸術」を書き、改めて日本におけるアメリカの傷跡を再検討しています。また、藤枝晃雄氏も、変わらずモダニズムの検討を続けています。

ここで日本の美術が、現在どういった方向に可能性を持っているかを示すのは、僕の能力を超えています。しかし、批評不在を言われ続ける日本の美術界にも、すくなくともある連続した批評の流れがあったことは、改めて認識されるべきではないでしょうか。欠けているのはむしろ、こういった批評にショックを受ける能力、存在しないわけではない批評の言葉に対応しようという「作品」であり「作家」なのではないかということです。

というわけで、今行われている二つの展覧会は、ものすごーく重要な意味があると思えます。以前も御紹介しましたが、改めて掲載します。

四批評の公差

岡崎乾二郎