絵画の高原の誘惑

岡崎乾二郎展を見てきました。
同行した同居人が言ったのは「美味しそう」「きれいで、私の好きな色使いしてる」「でも、その好きな色が好きに見えるのは、好きじゃない色があるからだと思う」ということで、彼女は美術も絵画もまったくの素人なんだけど、この発言はなかなかいい線をいっていると思います。要は彼女は、絵の具という物質の、この絵画でのチャーミングな扱われ方と、その複雑な関係性の一端を把握しているのではないでしょうか。


でも、この発言は、そんなに特別なものでしょうか?僕が考えるに、ある程度大人の女性なら、けっこうこの展覧会の絵画に対して、このくらいの感想はもつんじゃないでしょうか。今の、成熟した女性というのは、消費社会の中で感覚的なセンスを知的に把握する訓練を積んでいて、更にそれを言語化できる人が多いような気がします(身銭を切って服やアクセサリーを「一生懸命」買っているから?)。それともう一つ大事なのは、岡崎乾二郎という人の絵は、むちゃくちゃ高度なことをやっているわりに、その間口は広いのだと思えることです。


この点は、強調されるべきことだと思います。岡崎乾二郎氏は、あまりにも「高度なことをやっている」という点だけがイメージとして拡がりすぎてしまった感があります。もちろん、その高度さは事実としてあって、実際僕は今回の展示作品で行われていることの「高度さ」にクラクラしてしまったのだけど、でもそれは、専門的な教育を受けて沢山の絵画的教養を備蓄していなければ「近付くこともできない」「面白さが分からない」という種類の「現代美術」ではないのです。とんでもなく切り立った断崖絶壁を登らなければ入口にも立てないようなお城ではなく、すくなくともその作品の「玄関」は、僕達が普段暮らしているこの日常の高さに置かれていて、その扉は多くの人に開かれているような気がします。


これは、実は岡崎乾二郎氏の「高度」な評価を確定的に(?)したといわれる岡崎氏の著作「経験の条件」にも言えると思えます。この本も、氏の絵画と同じく十分以上に高度なんだけど、同時に、面白すぎるくらいに面白い本なのです。ぶっちゃけて言えば、この本の最大の欠点は、いくらなんでも面白すぎるという所なんであって、なんだか読んでるほうが「こんなに面白く書いてしまっていいんだろうか」と心配してしまうくらいに面白いです。ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」なんか目じゃないくらいにスリリングで、誤解を恐れずに言えば、世のミステリ好きな人なら、泣いて喜ぶくらいに「楽しい」本だと思いました。


知的なジョークで自分の名前を一時的に失ってしまったグラッソの伝説の緻密な分析、一般的に駄作と言われていたフェルメールの、ある作品の評価を見事にひっくり返していくその筆致、途中で笑い出してしまうくらいに痛快かつ繊細に解きほぐされていくブランカッチ礼拝堂壁画の、エラリー・クイーンも真っ青の「謎解き」。その「面白さ」を語ってしまうのは、確かにこの本の評価を通俗的な水準に貶めてしまう危険性があるのだけど、でも、この本の魅力は「高度さ」の中に、誘惑的な「面白さ」が混在していて、その「幅」が極端に広いことにあるんじゃないでしょうか。


そこの所を、本人も周囲も妙に避けているとしか思えないくらいに語らないのが、ちょっと不満なのです。実際、この本の販売部数は、納得がいかないくらいに少ないです。きちんとその「面白さ=間口の広さ」を怖がらずに語っておけば、変な話、村上龍だの高村薫だのの作品と同程度には売れていいはずです。もちろん、その数の読者の中で、岡崎氏の「高度さ」を「理解」する人は少数かもしれません。でも、「感じ取る」という水準なら、その数はもっと多いはずです。強い言い方をするなら、岡崎氏が最初から切断している筈の「現代美術」の人気のなさのすぐ近くに陣取って、消費されることを回避してしまうのは、もったいないを通り越して、ずるい気がしてしまうのです。


今回展示されている絵画も、最初から専門家でない人を拒絶するような作品じゃありません。むしろ、その魅力はびっくりするくらい幅広い人に向かって開かれていると思えます。場合によっては「俗っぽい」くらいの「色っぽさ」があるのです。でも、その「セクシー」な魅力の背後に、とんでもなく「高度」なものが控えています。それが「セクシー」な魅力と同時に感じられて、つまり、この絵がもし「女性」なら最高にイイ女、と言えます。だって、高度に知的で、かつセクシーなんですよ。普通、辛抱たまらんでしょ。


その「俗っぽい魅力」を語るなら、なんと言ってもキャンバス上に置かれている絵の具、その物質感と色彩の、なんともいえない艶かしさにあると思えます。透明ジェルやグロスメディウムを大胆に使い、肉厚に盛られて大胆にうねるアクリル絵の具。その人工的な肉感性は、視覚だけでなく、触覚や、場合によっては(僕の同居人が言ったように)味覚にも響いてくるものです。この魅力は、現代美術という「閉域」など簡単に通り越してしまう強さと拡がりを持つと思えます。


しかし、ではこの絵は、そこだけに止まってしまうのでしょうか?そうではないところが、この絵の真にセクシャルなところなのです。一般に「ペインタリー」と言われる抽象絵画の「絵の具の艶かしさ」は、その多くの場合、作家の身体性とか、アクションの一回性とか、「勢い」に還元されてしまいます。しかし、岡崎乾二郎展での絵画をちょっと見ていれば、それこそ絵の素人でも、そこに還元できないものを感じるはずです。ある意味非常に親切というか、わかりやすいのですが、この展覧会では全ての絵が2枚1組みで提出されています。そして、その隣り合った絵を見比べたとき、そこには「身体のアクションの勢い」なんて言葉からは程遠い、とんでもなく慎重にコントロールされたものが見えてくるのです。


具体的に言うと、左右の絵で、ほぼ同一の「タッチ」が、驚くべき精密さで何度も反復されているのです。左の絵に「勢い良く」置かれたタッチと、ほとんど同じタッチが、違うバリエーションで右の絵にも置かれています。場合によっては、片方で「描かれている」タッチが、もう片方では「その形に」抜かれています。タッチの形に、キャンバスの地が覗いているのです。しかも、その様々に操作されているタッチが、絶対に一回で決められていません。二度三度と手を加えられたタッチが、もう片方の画面では、やはり同様に二度三度と手を加えられて、しかも異なったやり方で、反復されているのです。冷静に見てみるとやたらと複雑なことがされているのに気づくでしょう。そして、その複雑さが、ぱっと見の「魅力」自体を成立させているのだと思えます。


この作家は、昔かたぬきの「型」を使って、同じストロークを反復させる絵画を作っていましたが、今回は完全に型は使わず、本当の手作業で、この驚くべき「反復」を実現しています。ここから発生するのは、「作家の身体性」とか、「一発のひらめき」とかによる「コントロール不可能なものの神秘性」とは遠く隔たったものです。「徹底的に制御していくことによる、身体性の消去」が、反対に意識されています。この絵の中に、作家の意図にないタッチはありません。ほとんど一級の書道家の筆跡のように、厳しく訓練され、集中された精神から生み出されたタッチがあります。そして、ここからが大事なのですが、「ぎりぎりまで制御されたその結果」として、「制御しきれない何か」、意図をぎりぎりまで押し進めた先での「そこから少しだけずれてしまった何か」が、幽かに浮上しているのです。


語らないこと、あるいは語りきらずに残しておくことによって生まれるものの魅力を、この作家は否定します。徹底的に意志し、自分を制御して、とにかく語りきってしまうこと。技術で描けるものは描ききってしまうこと。この作家は、そこに自分を追い込んで行きます。その結果、画面に立ちあらわれるのは「意志」と「技術」であって、「作家個人」は消えてしまいます。しかし、そんなものはこの作家にとっては、どうでもいいことなのでしょう。


もしかすると、「作家個人」を消去することこそが、この画家の目的かもしれません。そして、ローカルな作家個人が消えたあとの画面には、誰でもアクセス可能な、広さと高さをもった「絵画の高原」のようなものが出現します。その美しい高原には、何度も言ったように、絵画の専門家でなくても遊びにいくことができます。しかし、その美しさが何によって支えられているかを知ろうとしたとたん、その目前には高い峰が見えてくる筈です。


一流のスポーツ選手は、その種目のルールも知らないような人にも感動を与えます。同時に、そのプレーを理解しようとすれば、その選手が極めて抽象的な水準で高度に自己を訓練し、制御していることを知るはずです。岡崎乾二郎展を見ることは、最高のアスリートのプレーを見るようなものです。なまじ演出過剰なアテネオリンピックを見るよりも、むしろこの展覧会を見た方が、爽快かつ高度な体験となるのではないでしょうか。会期終了間近!改めて情報を掲載します。


岡崎乾二郎