作品は作家を消しうるか

「いもじな日々」(http://ha5.seikyou.ne.jp/home/seamew/profile/diary.htm)において、この「paint/note」での記述id:eyck:20040331#p2に付いてコメントと疑義が提出されています。
大体において、僕の意図は正確に把握されていますが、思ったことを書いておきます。以下、5/5の「いもじな日々」から引用。

この主張を例えば言語コミュニケーションの場合に置き換えると、<私が既に話した言葉は、私とは何の関係もない。>という主張となるのでは? う〜ん、ますます解らん。

僕自身は、コミュニケーションとエクスプレッションは、基本的に違うものだと思いますので、ここは「置き換えてはいけない」と思います。ただ、「言葉」を「作品」と乱暴に結び付けて言ってしまえば、文字どおり「私が既に話した言葉は、私とは何の関係もない。」のではないでしょうか。

基本的に「私が既に話した言葉は、私とは何の関係もない」ということが混乱を引き起こすのは、発語する主体は常に一貫性をもっていて、その一貫した主体を「正確に表す」のが「言葉」である、という前提があるからだと思えます。僕はこの前提を疑います。
おそらく正確に書くならば「私が既に発した言葉は、私を常に更新する」のであって、「私」は言葉(発語)の「結果」として遡行的に構築しなおされるものだろう、と思えます(でもこれはそんなに抽象的な話しではなく、言葉を「作品」と言い換えずに字義通り「発言」と受け取っても、日常的な事態のような気がしますが、とりあえず、ここではあくまで「作品」についての記述だと御理解ください)。

たしかに、こういった認識は「作品と作家はまったくの他人です」という「強い断定」とは結びつかないかもしれません。その部分は、例えばゴッホの作品が、作品単体で受容されずに「ゴッホという人の人生」の解説のように見られてしまう事態への反発として、意図的に強く書いたという事情もあります。また、もっと言ってしまえば、作家が「自己イメージ」の保護を優先して、そこから自由であるべき「作品」を犠牲にしてしまうような態度(例えば通俗的耽美主義者のド−ル趣味)へのアンチテーゼとして書いたと言えば、多少は御理解いただけるのではないでしょうか。

間違えてはいけないのは「ならば作家は自己の意図など捨てて、適当に観客が各自意味深に捉えてくれそうなものを作ればいいのだ」という「無責任」に陥ってはいけないということです。作家の意図の蒸発というのは、むしろその徹底的な追求の果てにおきる現象です。最初から「観客次第でてんでばらばらに受けとられるような作品を意図して作る」ということをやると、クイズ番組の三択問題のような、貧しい「多様性」しか生まれません。要するに今だ前近代的な日本という国が、まるで西欧の近代の再構築を先取りしているような誤解を招くのと同じです。主体の崩れをイージーに考えてしまえば、その結果は退屈なものにしかなりません。

また、僕が作品を作る際の心理的基盤についてですが、作品の製作というのは一人の作家の中で3つの段階の循環によって成立していると思えます。すなわち

  • 1.見る(観客)
  • 2.検討する(批評家)
  • 3.操作する(作家)

というサイクルです。3.で操作されたものは、あらためて1.へ戻って観賞され、2.で批評され、更に3.で操作されます。原理的に言えば、「完成」というのは作家の自作への観賞能力及び批評性の限界点でしかなく、さらに違う観点からの観賞・批評に曝されば、その完成作は常に未完成作になります。通常の作品観賞、つまり他人の描いたものを観賞してある批評をもったものは、その作品に直接手を加えるのではなく、新しいキャンパスに別の作品を描くことになりますが、一度でも絵画の訓練を受けた人(そんなに特殊な話しではなく、たとえば小学校の美術の時間を思い出してみてください)なら、完成だと思っていた作品に、教師によって手が加えられた経験はあると思います。

少々大袈裟な言い方をすれば、世界で無数に書かれている絵は、実は架空の1枚の絵の無限の更新だと考えることができるかもしれません。逆に、一枚の絵は、無数に「その続き」の絵に分岐していく、ある過程の1点だとも言えます。また、そのような無数の分岐(批評)を生み出すような作品を「古典(マスター・ピース)」というのだと思います。

若干話しがそれましたが、製作の現場においては、まず先行する諸作品への批評から、自らの絵画が開始されます。そして、完成というのは、その作家の批評性のある臨界点を示しています。作品を展示する、というのは、その作家の批評性を、多様な別の角度からの批評に曝すことによって、止まってしまったと思えた作品を更に稼動させようとする行為です。自らの手ではこれ以上回転させることができなくなった作品が、作家の手を離れて(作家と無関係になって)、新たに回転してくれることを期待しながら筆を置くことになります。

作家と作品が無関係である、というのは、ですから、常に総ての作品がそうである、ということではありません。作家と無関係になり得て、作家の意図を越えて、ある観賞なり批評なり別の新たな作品を産むことになった作品というのは、ある程度選ばれた作品だと言えるかもしれません。