写すことによる思考

アートスペースモーターで、須田一政展を見てきました。
須田一政氏は、1960年代後半に、寺山修司主宰の天井桟敷専属カメラマンとしてデビューした写真家です。今回の展示では、国内の、東京から微妙に離れた土地(主に千葉県だそうです)の風景が、モノクロプリントによって展示されています。

一見して、極めてオーソドックスな写真展で、高い技術によって撮影され、プリントされています。灯台をほぼシンメトリーに撮った作品は、その灯台の表面のタイルの細かい目地まで認識できるほどピントが正確で、最近の若手写真家に多い、カラーのハイトーンで時にはブレやピンの甘さによって雰囲気を作る、スナップショットの延長のような写真に慣れた目には、新鮮に写ります。

では、この写真展の見どころは、キャリアのある写真家の技術にあるのでしょうか。僕は、それだけではないと感じます。

須田一政氏の作品といえば、どこか根底的なところに人や風景への温かさ、信頼感が感じられます。地方のお祭り、都会の裏通り、工業都市の風景など、「昭和」という年代をイメージさせるような「懐かしい」感情を沸き立たせる作品が多いのです。

しかし、僕はそのような写真に、時としてアクチュアリティを感じられなくなっています。味もそっけもない郊外で生活する自分は、土着性というものを消臭した「消費」者であり「消費」物です。群れながら孤立し、孤立しながら群れる人の間には信頼感も不信もなく、ただ交換可能な、冷たいも暖かいもないモノ化した光景の中に僕はいて、だからこそデジカメの均一化された画像やインクジェット・プリンタの「貧しい」出力にこそ、リアリティを感じざるを得ないのです。

そんな時、いわゆる「巨匠」写真家達の作品を見ると、たとえそれが今現在の作品であっても、僕はどこかフィクショナルな感覚を味わいます。下町の裏路地などを、綺麗にモノクロで見せられても、何かエキゾチックな感覚、西洋人の目で歌舞伎をみて「感心」するような、どこか自分とは切り離された世界を見ているような気がしてしまうのです。対象への愛情、その温度、距離感。総てに「架空の懐かしさ」を覚え、その「懐かしさ」は「違和感」と紙一重であり、時に自分と同世代の写真家でそのような写真を撮っている人を見ると「ウソっぽいな」とさえ感じてしまうのです。

しかし、今回、そんな自分の中の違和感に、ちょっとした「穴」をあける作品がありました。会場に入って右手、3枚目の作品です。国道?脇にある、造成された土地の土砂崩れを防止するのが目的のような、コンクリ−トの壁を捉えたものです。なんてことない写真で、そのまわりにある「表情豊かな写真」、神社に集う人々や古びた納屋をおさめた写真に比べると、人によっては「何が撮りたかったの?」といった感想を持つ可能性があるかもしれません。

真新しいコンクリートの壁面を写したその写真は、表情に乏しく、味わいもありません。それは同時に東京の真ん中で見られるような風景でもなく、現代建築のような「クール」なものでもない。中途半端で、いかなる意味でも魅力なく、造形的に面白いわけでもないのです。誰にも求められていない公共事業のはしっこのようなモティーフです。しかし、僕はその「どうってことなさ」に、自分が今生きている感覚に呼応するものを感じました。

もちろん、どうということのない写真などありふれています。この写真の「どうってことなさ」が作品として成立し、いかなる誇張も卑下もなく表現されているのは、須田一政氏が培ってきた、須田一政氏でしか培い得なかった技術によります。その技術は、退屈なものを意味深に演出する技術ではありません。どうということのないものを、過不足なくどうということなく写すために、これだけの備蓄が動員されているのです。

この写真1枚によって、僕が違和感を持たざるを得なかった他の「懐かしい」写真群が、急に色づいて見えてきます。そういえば、郊外住宅の回りには雑木林があり、義理の家族が住む田舎にいけば未だ濃厚な地域共同体があり、正月には初もうでに行きます。須田一政氏の撮る、「懐かしさ」のある風景に対応する生活も、しっかりと持っていたことに気付かされます。もっと言えば、単に「懐かしい暖かさ」などと言って済んでいたそれらの光景に、ヒヤリとする酷薄さや厳しさなども写り込んでいて、そんなに単純なものではないことにも気付きます。要するに言葉で「自分は記号化した」とか言っても、実際には様々な出来ごとや歴史の残滓の中にいて、本当の自分の感覚の所在など確定できないのです。

須田一政氏という「大家」は、どんな観念にもよらずただ普通に、風景を見ています。これがいかに困難なことかは、いわゆる巨匠と呼ばれる人が、ひたすら自己の築いた世界に外部を押込んでしまって作品を伝統芸能化させたり、過剰に死やエロスといったものを言い立てて「意味」に埋没したりしていることを考えればわかります。かといって、当然「若手」の送りだしてくる「流行」に左右されることもありません。過ぎて行く時間と自己の接点を丁寧に淡々とフィルムに定着させてゆく手際には、ドラマチックさも新鮮さもないでしょう。しかし、そんな持続的な「自分と世界の交差」の探究こそが、真に写真による思考、写すことによる思考と呼ぶに足る行為なのだと思えます。

須田一政展「EDEN−終章−」