「いもじな日々」(http://ha5.seikyou.ne.jp/home/seamew/profile/diary.htm)の5/16の記事で、僕の5/7の記事(id:eyck:20040507)に対して再応答がありました。独り言ということでしたので、お返事するかどうか悩んだのですが、応答させて頂きます。

もしかしたら、このような進歩史観的な考え方は、必ずしも美術の本質ではなく、例えば近代になって成立した一つの「制度」における見方に過ぎないのではないだろうか、と。そして、永瀬氏が、「作家が「自己イメージ」の保護を優先して、そこから自由であるべき「作品」を犠牲にしてしまうような態度(例えば通俗的耽美主義者のド−ル趣味)」と批判する創作活動のあり方が、実はこの「制度」の外で営まれているものだとしたら、どうだろうか?

まず、大枠として僕が「近代になって成立した一つの「制度」における見方」を保持していることは全面的に肯定します。また、僕の見解が「美術の本質」ではないことも肯定します(僕自身は「美術の本質」なる言葉に否定的です)。ただし、補足しておきたい点があります。作品が(複数の)他人によって観賞され、それが別の批評なり作品なりを生み出して行く行程は、直線的な「進歩」ではなく錯綜した編み目状のものです。


過去の作品は時代順に観賞されるのではなく、現在の前において総て並列にあり、その中のどの作品を参照項とするかは任意です。例えば分かりやすい例で言えば、村上隆氏は1枚の絵画作品において江戸期以前の日本絵画と1950年代以降のアメリカ絵画、そして現代のオタク・カルチャーの映像作品を「同時」に参照しています。美術は直近の過去を参照し漸進していくものではないのです。


そもそも、時間軸上で後から作られた(過去の批評として現れた)作品は、あくまで別の角度からの批評としてあるだけで、進歩ということはありません。美術という分野は特殊な時期(ダダや未来派など)を除き、基本的に現在/未来よりも過去に価値を置き規範とする分野です。そういう意味では、常に「前進」してゆくという「科学」的立場とは異なります(蛇足ですが、素人考えを述べるなら、科学技術もマクロ的に見て、直線的な「進歩」をするものかどうかは留保が必要な気がします)。

ここで、若干のすれ違いがあるように思うのだが、・・・<私が言葉を発する>ことは、エクスプレッションであり、それが他者にどの様に伝達され評価されるかという問題はコミュニケーションの問題だということで、今問題にしている事柄は最終的にはコミュニケーションの問題になるというのが私の考えだった。

画面中央に赤い円が描かれている時、それを太陽の表象とみるか、日本の国旗と見るか、単なる幾何学模様と見るか、血痕と見るかは事前に確定できません(作品と作家はまったくの他人)。それがどのように受け取られるかは、観賞された際の受け手次第です。意味、あるいは価値は事前に確定できません。受け手に受容されてそれは初めて「意味」となるのであり、しかもその受容のされ方は制御できないのです。


これは言語の水準でも言えるのではないでしょうか。柄谷行人氏の「探究」によれば、「私」が「あい」と発語した時、聞き手が「愛」ととるか「藍」ととるか「私(英語のI)」と取るかは確定できません。同じ国語を話し、基礎的な価値観(例えば合理的論理性)を共有していれば事後の対話によって「あい」の意味するところを確定できますが、相手が幼児や外国人、精神異常者などであればそれは無理です。コミュニケーションを「他人」同士の対話ととるなら、むしろ同じ国語を話し、基礎的な価値観を共有しているもの同士の対話は対話ではなく独語であり、コミュニケーションを考える場合、逆に幼児や外国人、精神異常者などを排除してはならない、という柄谷行人氏の論考は参照に値すると思います。

それはともかく、我々の日常生活の実践感覚として、過去の自分と今の自分とが或る一貫性を持って存在してきたと認識していることは否定できないだろう。また、その様な前提がなければ、批評活動そのものが成立しなくなると思う。


ここは大事なところです。僕の立場としては、過去の自分と今の自分とが或る一貫性を持って存在してきたと認識していることを「認められないにもかかわらず」、過去の自分と今の自分の双方に対して「責任」をとらざるをえないと考えます。


「日常生活の実践感覚として」、過去の自分の言動に「覚えがない」ことは良くあります(アルコール摂取時を想起)。にもかかわらず、「私」は覚えのないことにも責任をとらなければなりません。また、覚えのあることでも、環境や立場の変化によって価値観が変わることもあります。にもかかわらず、その一貫性のなさによって生じる諸々のことを、「私」は引き受けなければなりません。恋愛において、恋をする前と、恋をしている最中と、恋が冷めたあとでは、それぞれの場面での「私」は、同一人物とは思えないものです。しかし、にもかかわらず、それらのバラバラな「私」を「事後的に」私として引き受けざるを得ないのです。


この「にもかかわらず」責任を「とらざるをえない」という所が重要です。「私」は「私」を一貫性の元にコントロール出来ません。環境が変われば価値観は変わり、生理的・心理的な「異常」で感情も記憶も消え去り、場合によっては無意識に捏造されます。睡眠時や病気にかかった時、あるいはセックスの場面では、その瞬間ですら自己を制御できません。「にもかかわらず」責任を「とらざるをえない」。なぜなら、そういった立場(近代になって成立した一つの「制度」?)の「外」には、大抵の場合、自由という言葉からは程遠い、美しからぬものしか無いと思うからです。