個人の危機が産む批評-作品

「四批評の交差」展会場で5/23に行われたユニット00のパフォーマンスの概要。
現場は美術館地下の講演室のようなところ。さして広くなく、天井の低さが印象的。ステージ上は布が敷かれ、壁も布で覆われている。中央奥にマイクが1つ置かれていて、手前向かって右手に磁気テープによる録音機、左に再生機がある。左右の機器は1メートル強あり、磁気テープで結ばれている。


顔を白く塗った堀浩哉が中央マイク前に、堀えりぜが再生機、畠中実が録音機前に座り、パフォーマンスが始まる。堀浩哉がマイクに向かって、文章を単語ごとに区切ってはっきりと、感情を込めずに話す。その声はマイクを通じて録音機に記録される。記録されたテープは離れた位置の再生機に送られ、時間差を置いて再生され、スピーカーから流れる。


マイクは、その瞬間話されている堀浩哉の言葉と、記録され、遅延して再生される磁気テープの声の両方を拾い、新たに録音する。その2重の音が記録された磁気テープは、また遅延して再生され、堀浩哉の声とともに再びマイクを通じて録音される。以下、ひたすら堀浩哉の声とその再生音が、時間差を持ちながら重ねられていく。


堀浩哉が話す文章は

の容疑者達の供述調書、特に被害者殺害時の供述。これが記されたA4程度の紙を読んでいく。語り-録音-再生-語り+再生音-録音-再生・・という循環は、詳細には以下のように聞こえる。

堀浩哉-僕は ナイフで B君を 殺そうと 思い
再生機- 僕は ナイフで B君を 殺そうと 思い


堀浩哉-右手で B君の 首を 締め付け ながら 
再生機- 右手で B君の 首を 締め付け ながら 
      僕は ナイフで B君を 殺そうと 思い


堀浩哉-左手で 僕が はいていた ジーパンの
再生機- 左手で 僕が はいていた ジーパンの
      右手で B君の 首を 締め付け ながら 
       僕は ナイフで B君を 殺そうと 思い

このように、分節された文章が、重層的に重ねられてゆく。また、堀浩哉は連合赤軍事件の文章を1枚読み終わると、次の1枚は坂本弁護士の文章を読み、その1枚が終わると酒鬼薔薇事件の文章を読む。このように各調書はバラバラにされる。上記の発声-録音-再生の工程により、「呼吸を」「首を締めながら」「腹の上に」「ねじれていて」といった言葉の断片が何重にもなって会場を埋める。


このパフォーマンスには謎がない。供述調書は入手可能なもので、それを堀は特別なテクニックなしで読み上げる。マイク-録音機-再生機は単純な機器で、再生の遅延も録音機-再生機が離された距離に置かれ、その間を長い磁気テープが横断してゆくことによって可視化されている。古い機器なので容易に入手可能なものではないが、これは技術的原理が観客に明示されていることに意義がある。演出は最小限で効果音もない。むしろ暗い照明や堀浩哉が顔を白く塗っている(死者の顔を仮象していると思える)事など、僅かな異化作用も蛇足に見える程で、蛍光灯の下で白塗りなしでも成立する作品だと思える。


殺人事件の供述調書に記された言葉が感情を排し、しかも断片化され重ねられ、聞き取りずらくされることによって、逆に生々しい響きを得ている。この生々しさを支えるのは、凄惨な事件のショッキングな単語によるものではない。パフォーマンス後のシンポジウムで堀浩哉が語った「自分のすぐ隣にあった、自分が関与する可能性があった事件」という、堀浩哉自身の切実さによって支えられている。連合赤軍事件の犯人と同世代で、当時彼らのすぐ隣で美共闘を組織し学生運動を展開していたこと、オウム真理教との距離感、また酒鬼薔薇事件の犯人の少年が自分達の世代の子供であったことなど、堀浩哉は「自分は何時でも殺人者に、あるいは殺人者の親に成り得た」という緊張感からこのパフォーマンスを行っている。


これを、堀浩哉が犯罪者に自己同一化した、ナルシズムに基づいた作品と見てはならない。このような作品製作は、事件に基づいた批評行為なのであり、この批評によって作家は、殺人犯の陥った自己撞着から遠く離れる。言い換えれば、こういった製作/批評活動がなければ、作家は作家ではなく殺人者になったかもしれないという危機感が、作品に強度を与えている。


本来、作品製作も批評活動も、こういった、人が直面している危機を乗り越えてゆく「方法」としてあるはずだという意識が、堀浩哉にはあるように思える。「美術の危機」や「制度化した言葉」「芸術の意義」などという「問題」は、それ単独では空疎なものでしかない。個人の抱える危機感が、「美術」や「制度」や「言葉」と交錯した時、初めてそれらは「問題」になり、そこからようやく「作品」や「批評」への第一歩が踏み出される。


堀浩哉の問題意識は、誰にも共有されない。堀にかかわらず、個人の抱える問題は誰にも肩代わりできない。しかし、そういった個人の危機に個人が向かい合い、対象化してゆくという行為だけが、批評行為としての作品、あるいは作品に基づいた批評行為に普遍性をもたせ、問題を共有できない孤立した個人を横断してゆく。それぞれの個人が抱える危機は、堀のような「生と死」に係わるものではないかもしれない。「問題がないという不安」で、人は危機に陥ることすらある。いずれにせよ、そんな危機が「美術」と交通事故を起こした時産まれる物が、批評-作品となるのかもしれない。