「めからとく」展(2)

タイトル変えました。あくまで展覧会メインと言う事で。
で、「めからとく」展です。学芸員を目指す専門コースの学生による企画展ということで、まずその企画意図に触れておきたいと思います。ホームページ(http://www.zokei.ac.jp/seminar/shinkou3/mekaratoku/index.html)/パンフには以下のメッセ−ジが記されています。

今回、私たち比較造形専攻振興コースでは、現代美術に於いて多用されている概念やコンセプトという言葉に疑問を抱きました。(中略)この企画展では、作品を鑑賞することは理論を知りわかる事にあることではなく、もっと根本的で近年不可視な部分であった''作品そのものをみる''という行為の重要性を発見して頂くことを目的としています.

「頭で説く」のではなく「目から説く」、つまり「考えてから見るのではなく、見てから考える」という''コンセプト''なのですが、この意図は展示と運営にも現れています。会場にはいわゆる作品解説のようなものはなく、簡易にタイトルと作家名をしるしたキャプションがあるだけです。また、作家のコメント等が書かれたパンフレットは、入館時にはわたされず「鑑賞が終わってから」観客に配布されます。

作家は小瀬村真美、赤松ネロ、ウエヤマトモコ、斉門ふじおの4人です。後述しますが、個人的には小村瀬真美氏という作家はその''コンセプト''からズレると思えますし、斉門ふじお氏もそれとは違う意味でフィットしないと思えましたが、とにもかくにも「企画展」と呼ぶに十分なメッセージ性を示しています。そもそも「企画展」とは名ばかりの、ジャーナリスティックで経済的で場当たり的な「プロの展覧会」が目立つ状況では、こういった展示は学生が運営しているという点を外しても評価できます。

ただし、この「目から説く=見てから考える」というタイトルの構造には疑問を感じます。この「目から解く」というタイトルには「順番(優先順位)」が明確に序列化して提示されています。つまり、まず「作品を見る」という行為があり、次に「考える」という行為が来るべきだ、とされています。この二つは分離されており、「考える/解く」から切り離された一種の「視覚の純粋性」が前提とされています。この「視覚の純粋性」という''概念''の検討が不徹底なため、結果的に後段の「考える」という部分の強度が、展覧会全体に不足しているように思えます。簡単に言ってしまえば「見て楽しければ(心が動けば)よい」といった所に落ち込みかねない隙があると思えます。パンフを読む限り、企画者達の意識はけしてその水準に留まっているわけではなく、相応の討議を重ねている様子なだけに、ちょっともったいないと思いました。

恐らく美術の世界で語られる「概念」というものに違和感を感じ、自らとの接点が感じられないという所から、なによりも「まず対象を見る」という経験的主観性を基点に据えたい、という欲求がこの企画の根っこにあると思えます。その出発点の設定自体は理解できますが、そこから拡がる筈の「見ること」と「考えること」の関係の複雑さが、もう少し展覧会の構成全体に見えてきても良かったかな、と思います。

さらに勘ぐると、この展覧会で最も重大に扱われているのは、「めからとく」というタイトルに含まれない「心」の部分だったりはしないでしょうか。メッセージの最終段落には、以下の文言が出て来ます。

「目から頭ではなく、目から心へ」私たちはこの言葉を提示します。作品を見てそしてそれが心に作用した時、初めて頭で説かれてゆく…。

視覚(め)や概念(とく)の背後に隠れながら、優位性をあたえられた「心」。ここで、「め」と「とく」を繋ぎながら、しかし双方に「価値」を与えようとしている「心」とはなんでしょう?この部分の検討も必要だと思います。例えばロシアフォルマリズムの展開と衰退のプロセスを考える場合、あまりシンプルに「心」や「感情」の優位性を「とく」ことは、相応の慎重さをもとめられる筈です。

次にようやく作品。最近パワー落ちしてるからって、妙な引き延ばしを測ってるわけではない…筈です。