ポジティブな「わからん!」

もう3週間くらい前の話しなんだけど、京橋の南天子画廊で中村一美氏の小品展(http://www2.kb2-unet.ocn.ne.jp/nantenshi/)がやってて、面白かった。中村一美氏といえば、とにかく大きな絵画作品、というのがトレ−ドマ−ク?みたいになっていて、しかも近年はその巨大化が顕著なんだけど、そういう作家の小品展というだけでも気になってしまう。

僕は中村一美氏に関しては近作よりも1990年くらいの作品が好きで、たとえば2002年に東京都現代美術館であった「傾く小屋」に出されていた絵画作品は、もうヤタラメッタラ巨大なだけで、なーんかイマイチだなぁ、と思っていて、試しにめっちゃ小さい作品を描いたらどうなんだろう?とか安易な事を考えていたんだけど、それがほんとに安易な思い付きでしかなかったことが、今回の小品展でよくわかった。中村氏はあたりまえのように、継続的に小品も描いている。そして基本的に小品であろうと大作であろうと、中村氏の意識は同一線上で保たれているんだな。

今回の小品展でも、僕個人の印象でいえば、やっぱり以前の作品の方が「好き」で、近作の方は「イマイチ」な感じがする。えらい些末な事かもしれないけど、その差は「絵の具ののり方」に感じられるのだ。以前の作品は、絵の具がキャンバス上にしっかり留まっている。具体的には、筆の置かれるポイントと、離れるポイントが、キャンバス上にあることが多い。もちろんいきおいよくキャンバスの外から外へ駆け抜けて行く絵の具も沢山あるんだけど、そういう絵の具も、画面を滑って行く勢いの中に、しっかり押さえ付けられる強さ(「筆圧」が高い?)があって、その強さが、高速に走る絵の具に「強度」「質」を与えている感じがする。

対して近作は、この「強さ」が薄れていて、本当にキャンバスにただ絵の具が「のっかっている」だけだったり、「しみ込んでいる」だけだったりして、絵描きの言葉で言えば、ちょっと「絵の具が質になってなくてナマ」な感じがする。で、僕はこれがキャンバスの巨大化によるんじゃないかなんてテキトーなことをぼんやり思っていたんだけど、小品でもその傾向は同じで、要するに、中村一美氏は、僕が書いたようなことは全部意識的なんである。あたりまえですか。そうですか。正直すまんかった。

中村一美氏は、僕が言ったような「絵の具が質になってる」とかそういうような事とは違う次元の事を目指している、というのが「体感」できて、こういう経験は逆に僕自分の方を揺るがしはじめる。目は正直だから、そこまで思ってもやはり僕は過去作品の方が「好き」だと思うんだけど、じゃぁその「好き」とか「こっちの方が良い」みたいな判断は何に基づいているものなのか?という、自分自身の基準が揺らぐわけだ。中村一美氏は自分が獲得して来た「よい/わるい」みたいな「基準」を切り捨てることを目指して、近作のような展開を見せていると思えるわけで、そこで切り離されたものの代わりに目指されたものが何なのか、というのが、僕にはまだ見えていない。

もしかすると、「基準」とか「目指す」とかという意識自体を、中村氏は捨てようとしているのかもしれない。もうこうなってくると一言「わからん」と言うしかないんだけど、この「わからん」というのは「つまらん」ということではなくて、物凄くドキドキして頭の中がかき回されて「うー、わからん!」と叫ぶしかないような、スリリングな感覚なんである。

すごく水準が高いところで、しかもその「水準の高さ」みたいな基準自体から更にジャンプしていこうとするパワーは、ネガティブな「わからん」ではなくてポジティブな「わからん!」という叫びを産む気がする。中村一美という人は、なんだかんだ言ってもやっぱりすごい人で、その試行錯誤を遥か遠くから背伸びしてみているような僕としては、今後もわからんなりに、その展開を見て行きたいと思う。