セザンヌのタッチ

Bunkamuraでグッケンハイム美術館展を見て来ました。会場始めに近い場所にあるセザンヌ「シャ・ド・ブッファン近郊」について書きます。


この絵は、セザンヌの父親が購入したシャ・ド・ブッファンの土地、農地と木立の続く風景をキャンバスに油絵で描いています。ほぼ同一の性質を持ったタッチ(上から下へ走る短く細いタッチ)で画面の全てがうめられています。画面の周辺部、近い地面と左右の樹木、上を覆う樹木の枝葉は比較的タッチの密度が低く隙間があるのですが、中央部、地面と樹木の作る「トンネル」の「穴」から見える遠景の広大な農地付近からタッチの密度が高まり、中央部で最も密となります。空気遠近法には沿わず、遠くに見える農地の丘の段差には極めて強いコントラストをつけていて、画面中央に濃い線(異なる色面の境界線)が水平に走ります。画面右にある大きな樹木の地面との接地部分は、まるで貼り絵のように宙に浮いて見えます。色彩は限定されていて、明るい褐色から濃い緑、空や影のグレー等、狭い色調だけで構成されています。


全体に「貧しい」絵だと言えます。限定されたタッチと色彩で構成されたこの絵の「貧しさ」は、今回両脇に展示されたゴッホとスーラの絵を見るとより際立ちます。スーラの絵は、やはりそのタッチは画面全体で均一に近いながら色彩は芳醇であり、ゴッホの絵はタッチの性格が対象にそって変化してゆきます。タッチと色彩の両面に、強く規制をかけながら構築されたセザンヌの絵は、独自の質を獲得しています。


タッチと色彩を「貧しく」することによって現れるのは、その狭い幅の中での変化です。タッチは1筆ごとにその強度を変化させながら画面内に置かれてゆき、色彩は限られた色数の微妙な混色によってバリエーションを作り出します。


この、限定された中でのバリエ−ションをもってこの絵を「豊かだ」と言ってはいけないと思います。「厳格」なのだ、というべきです。それは対象に近付く厳格さではありません。この絵では、対象(シャ・ド・ブッファンの風景)は、完全にタッチと色彩に分解され、いわば素材となって画面内に再構成されます。セザンヌの厳格さは、あくまで画面内の関係性に対してのものであり、右手近景の樹木が、いかなる意味でも「木らしく」描かれていないところに、そのことが分かりやすく現れています。


セザンヌは自らの武器を狭く貧しく限定することによって「厳格」さを追求しようとしたと思えます。それはモチーフに似せるという意味での厳格さではなく、また最初から予定した形を想定した中での厳格さでもなく、1つのタッチ、1つの色彩が生み出す「変化」、1筆いれるごとにたち現れる画面の中の異化に対して、的確であろうとする意志であり、描き続ければ続ける程に終わりのない「厳格」さだと思えます。

グッケンハイム美術館展