売れたか/売れなかったか?(1)

Bunkamura Art Show 2004“LANDING”を見て来ました(http://www.bunkamura.co.jp/gallery/event/artshow04.html)。
この企画の要は「現代美術(?)を売ってる」というところです(いやフツーのギャラリーでも売ってるんだけど)。議論の余地はいろいろあるでしょう。そもそも、美術作品というのは「労働製品」や「商品」とは違う位相にある、という話だってできます。でもこの際、それは棚に上げます。池袋セゾン美術館が死に、東武美術館が死に、新宿の伊勢丹三越小田急美術館が死に、横浜そごう美術館が死にました(それが果たして「美術館」だったかという議論はさておきます)。こういう中で15年ねばってきた東急百貨店Bunkamuraが、今現代美術を売ろうとしている、ということが注目ポイントなのです。


で、売れたのか、売れなかったのか。


僕が見に行った8/29の段階では、イマイチ売れてなさそうでした。実際の数字を確かめたわけではないのですが、作品キャプションに張ってある「売約済み」マークがあまりついていない、気がしました。さすがにBunkamuraギャラリーが買い上げてるわけではなくて、セレクトショップなどでありがちな「委託販売」だと思うけど、普段は工芸作家やイラストレーター、版画家などの作品をコンスタントに売っている場所です。立地を考えても、商品が出ないだけで損害のはずです。さらにいうと、Bunkamuraがフューチャーした若手作家が渋谷で作品を売って、売れなかったという事態が生み出す心理的影響もあるかもしれません。若手の美術は売れない、そういう絶望?が更に拡がり、Bunkamuraおよび一般企業が、より若手の美術作品に手を出さなくなる、なんてことになるかもしれないのです。


結論を言っておけば、今回Bunkamuraは冒険をしました。で、その冒険の安全対策の部分で、読み間違いをした気がします。そこを改善すれば、まだあと1-2回は挑戦しても損じゃ無いんじゃないでしょうか。できればやって欲しい、ということです。以下に僕の思うBunkamuraの冒険とミス、対応策を書きます。


何が冒険だったかと言えば、一般の人、国内の若手の美術作家(の購入)に縁がない人々に向けて現代美術を売ろうとした、ということでしょう。日本にも、小さくはあっても現代美術のマーケットはあります。が、それはいずれもディープな人向けです。ミズマアートギャラリーや小山登美夫ギャラリー、NICAFなどは、はっきりと「通」「業界の人間」に向けて売っています。あるいは外国人(の通)に向けて売っています。こういう「通」な世界では「文脈」に対する理解があるから、価格設定も高額です。「通」な人々にとっての「アート」は「ステイタス」込みですから、価格はむしろ高い方が売れるのです。そして当然、閉鎖的です。ミズマ(中目黒)も小山登美夫ギャラリー(新川)も、繁華街にはありません。ギャラリー手(京橋)などは、普段から入りにくくしてあります。一般の人は場所もしらないでしょう。むしろそうであった方が「ステイタス」は上がるのです。「現代美術」で商売しようと思う人は、おそらくまず最初に渋谷は避ける(松濤なら話しは別)と思われます。


今回、Bunkamuraは「渋谷に集まるような人」に向けて「現代美術」を売ろうとしました。くり返しますが、このこと自体を批判する視点も僕は持てます。でも、僕はあえてBunkamuraのこの動きを擁護したいと思います。理由は簡単で、まず作家として、自作が売れることを望まない人はあまりいない、と思える事(作品が売れてほしくないと本気で考えているのは、僕が知る限り国内では岡崎乾二朗氏?)。そのために、チャンネルは多い程いいと思えます。


次に、「通」の世界にまったく期待が持てないというのもあります。かつてはあった「美術界」が蒸発し、残ったのは一発勝負のお笑い芸か、ガイジンを喜ばす「変な日本文化」みたいなものだけになって、ほぼそこに「通」としての批評が見られません。こうなると、たとえ「美術に無縁の普通の人」でも、知的好奇心と精神的飢餓感を持っている人に向かってアクセスするしかない気がします。焦燥感をもった若い人がわけもわからずアルバイトしたお金で「ゲーデルエッシャー・バッハ」を買ってわからないなりに取っ組んでしまうことがあるように、美的好奇心を持った人が小品でもとんがった作品を買って「所有」してみる、なんて事がありえたら、それはけして不幸なことではないんじゃないでしょうか。


そんなわけで、Bunkamuraは有意義な冒険をした、と言えます。しかし、事実それは冒険であってリスキーなのです。で、結果的に「大成功」とは言えない事態にたちいたったのではないでしょうか。


その原因は2つ。「文脈の読み違い」と「文脈の未形成」です。以下、次号。