売れたか/売れなかったか?(2)

なんか無意味にアンテナ上がってました。すいません。ええと、昨日の続きです。
「文脈の読み違い」というのは、ちょっと大袈裟な言い方だったでしょうか。要するに、「売りにくい若手の美術」を売るためにBunkamuraが考えたラインが、ちょっとズレてたんじゃないか、ということです。
Bunkamuraが考えたラインというのは明解です。「現代美術は難しい」から売れないので、「親しみやすい」ものにしよう、ということです。花のインスタレーション、「小動物」や「化粧」「肌(ボディペインティング)」を扱った絵画、森林と女性のダブルイメージを写す映像作品。そして、工芸的彫刻。

ふう。

思わずため息が出ます。百貨店的な、あまりに百貨店的な「マーケティング」です。そもそもこういう「マーケティング」で、相応に真摯な作家活動をしている各参加作家を遇することもどーかと思います*1が、それは置いておきましょう(置いておく事が多いな)。ぶっちゃけて言えばBunkamuraは「渋谷の若い(女性?)消費者」を狙っているのです。


ダメです。これでは上手くいきません。「美術作品」を、思いきって買うのは「危機感を持った個人」です。そしてそういう人が求めているのは「親しみやすいもの」ではありません。親しみやすく、分かりやすく、感覚的に自分を脅かさない、痛みのないモノで溢れ帰っているこの世界、いわば百貨店的世界に違和感を感じている個人が求めているのは、それとは少し違ったモノなんだと思います。


「親しみやすくて可愛くて、でもちょっとだけ他の人が持ってるものとは違う」モノが欲しいような「消費者」は、たとえどんなに自分にすりよってきていても「美術作品」は買いません。「ちょっとだけ他の人が持ってるものとは違う」モノというのは、あくまで周囲の人が認知できるものです。美術作品を所有している、というのはその範疇を超えます。もし「通」ではない人があえて美術作品を買うとするなら、自分の個人的な精神の餓えに応えるモノが欲しい人が、そのような内省的な動機によって、その動機に応えるようなモノを買うんじゃないでしょうか。そういう人は、もう「消費者」ではない「個人」です。


親しみやすいものなら、他にいくらでも選択肢はあるのです。なにも、無駄に難しい物をそろえろと言いたいのではありません。要は、服やアクセサリーを買えるお金を「美術作品」に支払う人がいたとしたら、いったいその人は何を求めるのか?という事を、従来の価値観ではなく、Bunkamuraが「何か今までと違う事をすべきだ」と思った危機意識の延長で考えるべきなのです。


小さいもの、価格が少なくとも20代の社会人くらいの人なら購入可能な範囲のモノ、という線は守っていいでしょう。それも、「買いやすいように、わざわざ小さい物を作る」のではなく、日頃から、相応の根拠をもってそのようなサイズのものを作っている作家の作品です。そして、作品の内容自体は、あえて先鋭的でいいはずです。要するに「客に合わせた」ようなものはダメなのです。今必要なのは「水平」なものではなく、「垂直」なものだと思います。

案外引っ張るな。予告済みの「文脈の未形成」は、さらに次号。

*1:もし「親しみやすい」作品を美術の文脈で作っている人がいるのだとすれば、それは、「親しみにくい」美術(館)というものを転覆しよう、という、それなりの美術的意識に基づいてのはずで、それをそのまま「デパート」に持って来たらどうなるか?というくらいの想像力は持つべきでしょう