複数の時間を生きる1つの落下

ギャラリー山口で、奈木和彦展「なくした井戸」を見てきました(http://www.gaden.jp/yamaguchi/2004/040906b.htm)。

地下のスペースに、7つのオブジェクトが置かれています。

  • 会場に入って左手の壁面には箱が3つかけられています。中には青いフィルムに印刷された世界地図の部分が何枚か重ねられて入れられており、背後から蛍光灯で発光させられています(「極地に落ちた石」)。
  • 正面の壁面には大きな釣りの「浮き」が扇形に束ねられ、高い位置に設置されています(「鳥の道」)。
  • 右手には、地面近くで鳥の軸つきの羽を写したモノクロ写真が3毎、額に入れられており(「彼方の軸」)、
  • そのやや手前には鉄製の台に置かれた半球状の透明なモノが内部に複雑なマチエールを抱えています(「閉ざされた波紋」)。
  • 一番手前には、大理石に置かれた筒の中に樹脂の小さな「つぶつぶ」が入れられ、その上に虫眼鏡が設置されています。そのため、上から覗き込むと、レンズの中に「つぶつぶ」が拡大されて見えます(「昇天」)(カッコ内は作品タイトル)。

全体に、左手壁面から正面、右手壁面、入口近くという順番で、視点が「落下」してゆきます。地図=地球を見る衛星軌道上のような高度から「鳥の道」へと降りて来た視点は、地表近くの羽の写真、(井戸の)波紋を模した半球型オブジェ、(井戸の)底を覗き込むような作品と、順次螺旋をえがくように下降するのです。


この作品には独特の「時間」が含まれています。まず会場に入ってから、各々の作品の「意味」を読取るのに時間がかかります。一見相互に関係なくみえる7つのオブジェクトが、何を意図されてそこに置かれているのかは、一目ではわかりません。地図、浮き、写真、透明なオブジェ、レンズで「下」をのぞきこむ作品というそれぞれのものを、1つづつ見ているうちは、それらの関係にきづきません(僕はただ、漠然と「世界」への入口のようなものを作りたかったのかな?と想像するだけでした)。


やがて、作家から渡された「タイトル表」と、そこに書かれた「なくした井戸」という展覧会名によって、徐々にバラバラだった作品が結び付けられていきます。そして、このインスタレーション全体の構造が把握できたとき、一見無関係に思える各作品を渡っていく1つの螺旋落下軌道が浮上するのです。


では、この作品の構造を予め知っていたら、この「時間」は発生しないのでしょうか?そうではありません。まず、作品に埋込まれた「落下距離」が大きなスパンで設定されている(地球を俯瞰するような高さ→鳥の飛ぶ高さ→地表→井戸の水面→井戸の底)ため、全体の構造が見えていても、そこにある程度の「時間(=距離)」を感じます。さらに、各作品の要素は、緩やかに繋がっているようでありながら、やはりバラバラな、相互に違う次元をもっているため、螺旋の降下軌道は各作品(ステージ)で分断され、1つの落下運動がステージの数だけ「異なる時間」を過ごすことになります。その結果、全体の行程がいくつかの場面の重なりあいとして感じられ、不連続でありながら連続しているという、奇妙な時間が発生するのです。


各作品に視線を移すたび、視覚はその作品固有の時間を過ごすことになります。その1つひとつの時間は決して繋がっておらず、独立しています。その独立した時間が、各作品に設定された「高度」の序列によって並ぶと、そこには上記のような「不連続な連続」が生まれ、複数の時間を生きる1つの落下が発生するのです。


「多様な次元の並列」という概念が単純に把握され、結果的に瞬間のインパクトしか発生させないような作品と違い、この奈木和彦展で展開される時間=距離は、不思議な質を伴っています。各個の作品の現れ方に、若干の曖昧さと類型的な側面があることが気になりますが、全体の構成に独自の世界観があり、興味深いインスタレ−ションになっていると思いました。


奈木和彦展 「なくした井戸」