生成する快楽

津上みゆき展を見てきました。第一生命ギャラリー(http://www.dai-ichi-life.co.jp/company/activity/gallery/south/)。
ペインティングの作品です。パネルに張られた綿布にアクリル、膠、油絵の具、顔料などの画材で描かれ、一部にはパステルや鉛筆などの筆致も見られます。会場内に
は150号の大形作品(1820×2280mm)を中心に80号(1120×1455mm)、さらに習作と思える小型の作品(F4/242×333)もあります。100号(1621×1303)を2枚組あわせたものもあります。また、会場外には500号、幅3mもある作品が2点展示されています。


一貫してつけられたViewsという作品タイトルから、モチーフはどれも風景であることがわかりますが、そのモチーフは描く行為の中で再構成されています。綿布に染み込むような薄い絵の具とたっぷりと厚みのある絵の具、透明な色彩と不透明な色彩、大きくフラットな色面とパステルなどによるストローク、細かな筆致と大きなタッチといった、様々な対比によって画面が成り立っており、その中に元の風景がかすかに感じられる状態になっています。また、色彩は多様な描画材の特質をいかした鮮やかさを保っており、事前の混色はかなり押さえられているか、まったくないと想像されます。画面内での「混ざりあい」や、下の層の色が上の層の絵の具から透けて見える部分で、グラデーションあるいは混色に近い効果が見られます。蛍光色、白といった絵の具も、透明/あるいは不透明に、自在に使われています。刷毛あるいは筆のかすれ、絵の具のにじみや重力による「たれ」、たらし込み、したたらしの痕跡などがありますが、どれも非常に抑制のきいたもので偶然の要素はほとんどなく、かなりの程度まで作家の意図の範囲でコントロールされている印象があります。


この作家の特質は、そのタッチや色彩の奔放な印象とはうらはらに、洗練された技術をもとに意図的に画面を作り上げている点にあります。その意図の中心は、津上みゆき氏のもつ「快感原則」の表出のようなものであり、その原則は「描く快感」ではなく「視覚的快感」だと、僕には思えます。上記のような、絵の具のしたたり、たれをも偶然性や勢いにまかせることなく制御しているのは、津上氏がなによりも(描く所作よりも)見ることの快楽を優先していることの表れだと思えるのです。


視覚の快/不快は極めて制度的なものであって、何が快で何が不快であるかは、環境や教育等に依存します。それは、各個人が置かれている状況やその「歴史」が個別であるために極めて個人的な判断となり、場合によっては個人の中でも分裂し、瞬間ごとに変化します。同時に、一定の社会的枠組みが前提とされる集団内では、ある視覚的快感のコードが共有され、一般化されます。一般化されたコードだけで視覚的作品が作られれば、そのコードは瞬時に消費され、コードだけが作家/観客に共有されて作品は原理的に消失します。また、極度に個人的な快感原則に基づこうとすると、ほぼ毎瞬間ごとに変化/分裂/生成する諸感覚に翻弄されて作品自体が成立しえないか、あるいは無理に統一された主観によって作り出された「私という物語の独り言」が展開することになります。


津上氏の作品、そしてその作品がもたらす快楽は、危ういあわいに成立しています。それは通俗なものに流れそうになりながら、同時に孤立した個人的感覚にも落ち込みそうになります。その双方が同時に成立するのは、いわば「私小説」的世界です。作家の個人的事柄、その快感原則の基底のようなものを、観客が共有するような状態、そのような場所で成立する作品を私小説と呼ぶならば、個人的でありながら、なおかつ一般性をもつ作品は私小説的です。


津上氏の作品には、こういった私小説的要素が濃厚にあります。もちろん、私小説的な作品は、それ自体でネガティブなものではありません。同時に、それは前提的に優れたものでもありません。津上氏の絵画が「極めて優れた私小説」となり、その枠組みを超えていこうとする可能性を開示するのは、なによりも津上氏の絵画での描く技術の高度さであり、同時にそれが風景という「外」を参照している点にあります。


津上氏は、作品を描く過程の一瞬ごとに、そのタッチなり筆致なりを「判断」していると思えます。習作でおおまかな構図は検討されていても、実際の制作の現場では、その構図も含めて「描く」と「判断する」が交互に、あるいは同時に展開されているのではないでしょうか。一つのタッチが快であるか不快であるかの判断、その基準は揺らぎ、変化し、新たに生まれてゆきます。しかし、それがバラバラにならず作品として定着してゆくのは、その揺らぎに対応するだけの多彩で多様な技術を、津上氏が持っているからです。一筆ごとに変化してゆく画面と、それを判断する自分の変化に矢継ぎ早に反応するように、津上氏は油彩を、水彩を、パステルを、鉛筆を、アクリルを、膠を、次々と投入しては高度に制御してゆきます。この作家がこれだけの種類の画材を必要とするのは、過酷な必然なのです。そのように自立的に展開していこうとする作品は、しかし元となったモチーフの風景を切り捨てることなく、あくまで参照項として残り続け、作品を外へと開きます。


このようにして、生成変化し分裂と統合を繰り返す快感原則に即応する、多様な描画材を駆使する技術と、作家の外部にあって作家を規定する風景を最後まで残存させることによって、津上みゆき氏は繊細で精妙な私小説的絵画を織り上げ、そして私小説的世界から離床しようとします。その、徹底すれば自己が解体しかねないような快感原則を、ぎりぎりまで追いかけていく津上みゆき氏の過激さにこそ、この作品群の可能性があるのだと思えました。


津上みゆき展