色彩の向う側にあるもの

小山登美夫ギャラリーで、蜷川実花写真展を見てきました(http://www.tomiokoyamagallery.com/kaisaichu.html)。
自分が個展をやる勇気がなくなってしまうような展示です。要するに、素晴らしいのです。


入口及び四角い会場の三方に大判のプリント17点、残り1つの壁面に小さいサイズのプリントが、同じサイズでグリッドに沿って規則的に並んでいます。いずれも額装ではなくアクリル板に貼られています。モチーフを挙げてみると

  • 十字架(墓)
  • マリア像
  • 子供
  • 小動物(ウサギ、水母)
  • ガラス窓
  • 女性(モデル)
  • サンバのダンサー
  • 工場から吐き出される煙り

等です。いずれも高い彩度と濃度の色彩が特徴的ですが、中には彩度が押さえられている作品もあります(ケージ上?のウサギの写真など)。また、スタジオで撮られたモデル以外のスナップ的なショットは、外国で撮られたものが多く、たくさん登場する子供たちの多くも外人です。構図は多様で、水平線を大胆に低く設定した大きな空や極端な接写による花、見上げ構図、仔鹿を抱く女性モデルを真正面からシンメトリに捉えたもの、オーソドックスな目線の高さから捉えたものと、様々なアプローチがされています。光源も慎重なライティングをセットしたものと自然光双方があり、ピント・露出も決定的に決められたものから微妙に、あるいは大胆に外されたものまで混在しています。


蜷川実花氏の写真は、その色彩のビビッドさが喧伝され、事実その色彩は極めて強い印象を残すのですが、この作家はけして単純なカラリスト、ファッショナブルに「美しい」写真を撮るだけの人ではありません。この展覧会の最も注目すべき点は主題、テーマです。


空に消えて行く煙り、枯れた花と生花(造花も含まれていたように思います)、プラスチックの台の上にうずくまる、長い耳に血管の透けて見えるウサギ、クラゲ、雲と青空と陽光、それらを映しこんだ海、サンバの「踊り」、水、たくさんの子供、そして墓。それらに共通するのは「弱さ」です。すぐ消えていってしまうもの、刻々と変化しつつある途上にあるもの。そしてその先にある(あるいはそれらの起源としての)死。子供や小動物などの「弱いもの=すぐに死んでしまう(可能性のある)もの」が、展覧会全体を貫くテーマとして存在しています。そして、それらの「弱いもの」を強く刻印するために、その強烈な色彩が要請されているのです。ですから、色彩は、あくまで手段であり、蜷川実花氏にとっての武器であって、蜷川氏が真に狙いすましている標的は、強い色彩の向こうにある「弱さ」「うつろい」「死」なのだと思えました。


外国が主な撮影場所ということもあり、全体に日常感覚からの断絶が顕著です。それはまるで、死者の目から見た世界のようでもあります。もう一つ印象的なのは、この展覧会の写真群の人工性です。スタジオ撮りしたモデルの写真は徹底的に作りこまれた衣装とセット、照明で隅々まで意識的に構築されています。おそらく撮影後の、プリントにおける操作も必要に応じて行われていると思えます。スナップの構図は多様ではあってもいずれも狙いが明確で、ナチュラルに撮られたものはほとんど見受けられません。


明確な意志。それこそが蜷川氏の、もっとも非凡な資質と思えます。その意志を具現化するために、色彩を含めた、多くの要素が駆使されているのです。逆を言えば、意志するものにとって不要な時は、蜷川実花氏はいともあっさりと「色彩」など捨ててしまいます。その強い意志が求める先が「弱さ」の定着であるというところに、この作家の抱えている危機感と不安感、そしてそれらを全て肯定していこうというセンシティブな感受性があるのだと思えました。


蜷川実花

※また、TKGY at lammfrommの上原店では、蜷川実花氏の「Acid Bloom」収録の花の作品が展示されているようです。