散乱する生

ワタリウム美術館ラリー・クラーク写真展「パンク・ピカソ」を見てきました。
1946年生まれのアメリカの写真家の展覧会ですが、その展示内容は本人の写真作品の他に作家の集めていた新聞・雑誌の切り抜き、近親者や周辺の人々とやりとりした手紙、メモ、監督した映画の資料や撮影中のスナップなど多種多様です。写真の内容は若い頃の友人達が薬物やセックスに溺れている様子をストレートに捉えたものや、スケートボーダーの少年達、家族、若い恋人などで、いずれもスナップ的な捉えられ方をしており、作り込んで意図的に構築されたものではありません。また、身近な人が作家を撮影した写真もいくつかあります。9.11の同時多発テロで飛行機が突っ込んだ高層ビルを自宅から捉えた写真もあります。


展示の仕方も1点一点をしっかり見せる、というよりは手書きのメモなどと一緒に、けして大きくはないプリントを簡易な額やケースにいれて壁面・棚にランダムに、散文的に展示されています。ただし、スケートボーダーの少年達を撮影した作品群はポートレートの要素が強く、しっかり対象に向き合って撮影されており、展示もサイズを揃えたプリントを額装して規則的に配置しています。会場には作家が選んだと思われるポップ・ミュージックが流れ続けています。


薬物を手や足の血管に注射する人々、その注射針、性器、拳銃、亡くなった母親の死体、恋人のヌードといった、プライベートだったり違法だったり危険だったりするショットを、ラリー・クラークはなんの遮へい物も置かずにあっさりと真直ぐ捉え、一切の防御も施さず無造作に提示します。それは一緒に展示されている手紙やメモ、記事の切り抜きにも共通しています。酒を買う金惜しさに新聞代を回収しにきた少年から隠れる自分を記述したもの、愛情をまったく感じられないと切実な心情を綴った娘の直筆の手紙、自分がひき起こした暴力事件のてん末と、周辺の人への謝罪の言葉を書き付けたメモ、暴力や性への作家の関心をそのまま示す記事群と、一貫しています。


こういった、一見雑然とした展示が見せるものは、散乱する生です。それは「人生」などといった、物語化され、感傷にくるまれて共感を誘おうとするような自己愛的なものではなく、作家の視線が捉えた瞬間ごとの生(なま)の光景であり、全ては不連続で、またたくような生(せい)の集積です。ショッキングと思われるかもしれないモチーフも、そのショッキングさをまったく意図せず、単にありのままに撮影されたのだろうと推測される捉えられ方をしているだけに、意味深だったり卑猥さを強調されていたりすることがありません。むしろ、まっとうに撮られたストリートの少年達の視線や身体などの方が、なにか剥き出しにされた生々しさ、エロティズムが宿っています。


遮るもののない、剥き出しの視線。それらが捕らえるのは甘い「ダメさの肯定」でも「弱いもの讃歌」でも「アウトローな世界の魅力」でもない、単なる生です。しかし、無数の遮るものに覆われているこの世界で、そういった、あらわな対象そのものに向かい合うには、「自然に撮る」といった単純な態度とは違ったものが必要です。ラリー・クラークは、モチーフとしてはドラッグや性や子供達といった「弱さ」「ダメさ」「隠されたもの」に惹かれていきますが、それらを通して定着されたのは、自己愛を通り越した全面的な「受け入れ」という態度・視線であるように思えます。その何物も纏わない写真群は、あるがまま・なるがままといった水準とは違う直接性に満ちています。


何も纏わない生。それは醜さや美しさをすら身につけてはいない、瞬時に浮かんでは消えていく生です。その、ラリー・クラークの視線の先に散らばっている生は、今アメリカが正しさ・強さという観念で覆い隠してしまおうとしている世界からはみ出るように、違う種類の強さによって観客に届いているように思えました。

ラリー・クラーク:パンク・ピカソ