草間彌生展

終わってしまいましたが、国立近代美術館で、草間彌生展を見てきました(http://www.momat.go.jp/Honkan/Yayoi_Kusama/index.html)。
充実した展覧会だったと言っていいでしょう。大規模な草間彌生展としては、先の森美術館での個展(クサマトリックス)がありましたし、1999年には東京都現代美術館で回顧展がありましたが、そのどちらよりも草間彌生氏の実績と可能性を見せることに成功していたのではないでしょうか。


いまや伝説となりつつある子供時代のドローイングから、いち早くアメリカに渡ってそこで旺盛に制作された絵画、オブジェ、パフォーマンスの記録映像、また日本に帰国してからの作品、そして近作・新作まで、ほぼ主要な作品は網羅されていた印象を受けます。ボリュームは良い意味で絞られていて、各年代の最も充実した作品が見る事ができたと思えます。


展示自体はけれんみのない、年代と技法を基本に置いたオ−ソドックスな展示ですが、これだけの質量を見せるにはベストと言えます。「RIMPA」展で、ほとんどむちゃくちゃな展示を行った国立近代美術館ですが、ここでこれだけ押さえた展示をするというのは、やはり「展覧会」というものを誠実に考えているのだということが伝わり、今ひとつ疑念がぬぐいきれなかった「RIMPA」展までもが、今さらではありますがポジティブな実験だっだのだとさえ思えてきます。


この草間彌生展の質の中核となっているのは、やはり1958年くらいから1960/70年代にかけて製作された、一連の絵画とオブジェだと言えます。個人的なオブセッションを制作の基点に持ちながら、けして自閉することなく当時のアメリカの美術の展開をどん欲に吸収し、結果的にある種のミニマリズムに近接した作品を作り、しかも圧倒的な量と密度で「アジア」人であるとか「女性」であるとか「病」であるとかいった「偏向」と一切無関係に評価を確立していった作品群は、やはりこの「世界的芸術家」の基底を形作っていると思えるのです。


具体的には、絵画においては草間彌生氏の一貫したモチーフとなっている「水玉」の無限増殖の結果、円と円の間に浮かび上がった「編み目」を逆に図として捉えた作品が重要に思えます。木枠に張られたキャンバスに油絵の具で描かれた古典的なタブローですが、明度の低い地に白または赤い絵の具で、画面全体を覆ってゆく編み目は中心も像も形づくることなくストイックで緊密な画面を生成します。同時に、それは完全な平面となることなく、一部に絵の具の盛り上がりをみせ、その絵の具の盛り上がりが新たなる斑点として立ち上がろうとしています。そこにはミニマルな画面、印刷メディアの反復を重視したポップアートなどに近付きながら、そこからなお反転し離脱していく一回性、単独性、複雑性が刻印されています。


男性性器を模したソフト・スカルプチャーが女性の靴やロマンティックな印象を与える家具、ボートなどを覆いつくすように大量に付けられているオブジェも(今なお)刺激的な作品でした。すべて布と綿で「裁縫」によって作られた棒状突起物は、似た形を反復しているようでありながら同じものは一つとしてなく、有機的でありながら銀色など素材やモチーフの特性から乖離した彩色を施されることによって、その由来から想起される意味やドラマを許さず、高密度で複雑な視覚/知覚の再編成を迫ります。


この点は重視されるべきです。草間彌生氏はその精神的な病を「芸術」によって「克服」したという点が言われがちなのですが、これは端的に間違いです。なによりも草間彌生氏の作品が芸術として認知されたのは、その病を基点におきながらも、それをステップに近代美術の中核的な基準をオーバーしてゆく、知的作品群を制作しえたからですし、それらの作品はけして「アウトサイドアート」というようなものではありません。草間氏の病が芸術を産んだのではなく、その知的芸術があってこそ草間氏の病が注目されたのです。現に、病のある人が芸術作品たりえるものをつくることができるかどうかは、病のない人にとってとまったく同様に希有かつ困難なことであり、単純に言って関係がありません。また、草間氏は帰国してからも治療を必要としており、「治癒」したとは言えません。


一人の人間として、困難な病を超えて重要な作品群を作り続けている草間氏に尊敬の念を覚えるのは当然ですが、あくまでその作品の評価は作品単独でなされるべきです。そして、そのような立場からこの展覧会を見るとき、そこには下手な曲解など吹き飛ばすような、呆然となるしかない高みをもった作品達があります。


また、同時に草間氏を単に50-60/70年代の作家としてだけ見てしまうことも、この作家の矮小化につながります。事実、80年代以降も草間氏は重要な作品を作り続けています。雑貨店にありそうな棚と、そこに納められた「可愛い」モノたち全体に異様な水玉が描かれたオブジェ、黄色と黒の色彩対比が視覚を混乱させる絵画、鏡を対面に置いて梯子や光などを無限に延伸させ、観客の視線を絶対に観客に「返さない」インスタレーションなど、その固定のスタイルに留まらない「知覚の実験」は終わりを見せません。それは文字どおり認知のアバンギャルドと呼ぶに相応しい、テンションの高い制作の山脈を形作っています。その山脈の地盤となっているのが、中期の作品群なのだと思えます。


森美術館でも見ることができた最近作の絵画は、キャンバスに子供の絵のような「可愛い」小さな図柄がちりばめられていますが、その個々の図柄の「可愛らしさ」は、真っ白い地に黒い線で、目に痛い程コントラストを上げた中に描かれており、「病を克服した明るさ」などとは程遠い、ある種の緊迫感を漲らせています。互いの図柄が侵蝕することなく、乾いた基底に乾いたタッチで描かれた「散乱する子供の(ような)絵」は、知的な試行錯誤が未だにこの作家を駆り立てており、個々の要素の複雑な関係性/無関係性は、あらゆる技法を駆使してきた草間彌生氏の新たな「画家」としての可能性を開示しているように思えました。