描くという思考

アートトレイスギャラリーで、庄子和宏展を見て来ました(http://www.arttrace.org/gallery/member/syohji.html)。
絵画展です。4号程度から、20号〜80号あたりまで?の木枠へタックスで張られたキャンバスに、油絵の具で描かれています。数が多く、大きさも様々ですが、技法的には共通しているように思えます。筆で置かれた油絵の具が乾く前に次の筆が置かれるため、絵の具どうしが画面上でまざり合い、その連続した階調のひろがりによって出来上がっている作品が主軸となっていると言えます。


いくつかの作品は「混ざり合い」が少なく、タッチの独立性が高くなっていて、斑点様の要素が画面を覆うような画面となっていますが、この作家独自の問題意識が見えてくるのは(点数的にも)グラデーションの幅があり、その混然となった色面があるボリュームを見せようとしている作品でしょう。庄子和宏氏は、絵の具を置く時に、大きなタッチで「一発」で絵の具を乗せることをしていません。ある絵の具を置くとき、画面上で筆を動かし、まさぐるように描いてゆきます。そして次の絵の具が、まだ乾いていないキャンバスの上で同様に「まさぐるように」動くため、絵の具同士が微妙に混ざりあい、絵の具と絵の具の境界が断絶せずに繋がります。その繋がりが、画面上にあるボリュ−ム、雲の表面を拡大したような「凹凸」を作り上げるのです。


この「凹凸」は、けして明快な「空間」とはならず、混乱し、多くの部分で破綻しています。まるで暗闇で粘土を触りながら、ある形態を探っているような画面になるのです。これは、庄子氏が「既に見えている」もの、すでに分かっているものを描こうとしているのではなく、今だ見えていないもの、というよりは「描く事ではじめてみえてくるもの」を、文字通り物理的に筆と絵の具で「まさぐっている」ために出来上がる(あるいは出来上がっていない)画面となるのだと思えます。


これを若い作家の、途上的な未完成の作品と見てはいけません。本来「絵画」などというのは明快でも確定的でも無い、ある不定形で不安定な「探る営み」である筈です。庄子氏は、いかなる「解答」や「正しさ」も事前に措定せず、ひたすら画面の上で絵筆と絵の具だけを使って、「何か」を探っていきます。その何かが何であるかは、事前には分からない。ただ事後的に「絵画」と呼ばれることになるのです。その探究が、一部の作品では「風景」のような大きな空間となって見えてきますが、しかしそれらの作品にしても、明瞭な「事前の把握」によって作られたのではなく、あくまで「絵の具と絵筆による''まさぐり''」の結果、成立したものでしょう。


考えたことを描くのではない、考えもせずただ感覚的・本能的に描くのでもない「描く事によって考える」あるいは「描くという思考」が、庄子氏の絵画だと言えます。その画面が、明快とは言えないことは、なんらネガティブな事ではありません。むしろあまりに「明快」な作品にこそ、そこに思考があるのかどうか疑われるべきでしょう。庄子氏の絵画における混乱、「遅さ」、そしてその中にかすかに見えるものこそ、描くという思考の確かな痕跡なのだと思えました。


庄子和宏展