なんとなく概観

国内の美術状況をぼんやり見てると、世のナラカミ(奈良美智/村上隆)ブームがある飽和点を超えた中で−単純な言い方をするなら−「岡崎乾二郎以後」という動きがより具体化して来たような感じがします。モダニズムのハードコア、なんていうフレーズが美術の現場で''スムーズ''に使われるようになってきたような気がしてなりません。


ここで「現場」といったのは、制作の現場、ということです。1995年に出版された批評空間誌別冊の「モダニズムのハードコア」を土台に置いた作品制作をするような作家が目立つようになってきました。特徴的なのは、こういった作家達が批評家や美術館の学芸員ギャラリストのバックアップ抜きで、自力で活動していることです。


こういった動きは、もちろんジャーナリスティックに喧伝されるような規模ではないのですが、むしろそれゆえに際立っていると言えます。


1980年代以降美術批評が力を失い、コンセプチュアルな現代美術が「退屈」の一言で切り捨てられ、代わって人の欲望にダイレクトに働きかける「面白い」美術が日本の美術界を席巻してゆく中で、ちからを持ったのは批評家でも作家でも、ましてや観客でもなく、美術館や画廊の「キュレーター」でした。市場主義があからさまになってゆく中で、観客の目や耳を刺激し、効率的に集客することができる、どこかイベンター的な才能を持った人々によって、ここ20年程の国内美術の動きは先導されてきたと言えます。で、そのサイクルは、恐らくひと段落しつつあるのです。


ぶっちゃけ「疲れた」といってもいいでしょう。疲れたのは誰か?それは作家であり、観客でもあり、批評家でもあり、実はキュレーター自身でもありました。理念なきショ−ビジネスの果てしない回転は、高度資本主義と同義です。たくさんの観客=消費者を次々と回転させることでうまれる豊かさ、華やかさ、ハッピーさは、美味しい食事、洗練されたファッション、アクセサリー、便利な家電、楽しい娯楽、テレビの洪水と同じで、人々を満たすのではなく飢えさせ、際限なく「次」を要求し続ける回路を形成し、結果的に疲労を産んだ気がします*1


そんな中で、理念性の回復を求める動きが出て来るのは、ある意味まっとうすぎるくらいまっとうです。そして、その動きは、「作品制作」という極めて物理的な側面を必要としているのかもしれません。概念や思想=端的に言えば「言葉」だけではない、具体的な「現実」にはたらきかけるモノが、この即物的な市場主義に立ち向かう際の力として求められている気がします。そして、その時特権的な立場に立つのが、観客でもキュレーターでもない「作家」という存在なのです(!)。


感覚的/欲動的な「アート」は、そのメディア上の元気っぷりとは裏腹に、もうほとんど弱体化しています。楽しく、刺激的で、幼児的なこの「日本」が、ヒリヒリした怯えの際に立っていることは、もう誰もが感じている筈なのです。国際紛争や環境問題は、具体的に「私たち」の命を奪い始めました。もちろん、その怯えが更に逃避的な「楽しいアート」をより煽り立てていくこともありえます(というかそうなるでしょう)。しかし、その余命は見えていると言っていい筈です。


しかし、同時に注意しなければならない事は、理念性に基づいた「モダニズムのハードコア」に立つ「作家」が「勝利」する、という妙な意識です。何かに「勝つ」ことを目指した上での武器として「モダニズムのハードコア」なるモノがふりかざされる時、そこにはとんでもない倒錯が生まれます。この危うい世界の中で誠実に、しかし同時に深刻さに落ち込むなく「考え続ける」という態度がもたらすものは、そもそも「勝ち」など存在しない、ということであり、そのような思考が「作品」という形式となるかどうかは不確定な筈です。ましてや車のモデルチェンジのように「次はモダニズムだよ」なんてことになったら悲惨です。


ま、人事じゃありません。地道にいきます。

*1:そんな疲労を一身に引き受けつつあるのが村上隆氏だと言えるかもしれません。作家としてもキュレ−タ−としても極めて有能な村上隆氏は、その成功と裏腹に、ある悲壮さをおびつつあります