フルクサス

うらわ美術館で「フルクサス展」を見てきました(http://www.uam.urawa.saitama.jp/tenran_doc.htm#e2)。
本をテーマとしている美術館での展示ということで、フルクサスにおける「本」に起点が置かれていますが(主催者マテューナスがフルクサスを前衛作家を集めた形で本として出版することを発想した出発点となる書籍「アンソロジー」から展示が始まっています)、日本国内で集められるフルクサスの諸資料を網羅的に集めた結果、総合的な「フルクサス」展として見ることができます。充実した展覧会と言えます。展示物としては、パンフレット、プログラム、新聞などの印刷物、写真や映像などのイベントの記録、オブジェ、マルチプル作品etc.です。


フルクサスについては以下のページで概要を知ることができます。

その特長としては、以下の要素が上げられます。

  • 多くの作家が流動的に参加している
  • 計画的でなく、突発的
  • 小作品が多い
  • 楽家が多く、物質的実体をもたない「イベント」が多い
  • メディア的。(映像、音楽、印刷物)


フルクサスについては既に色々な言及がされていますが、僕が興味を持ったのは、当時先鋭的な前衛芸術家だった人々の、ある種の幼児性のようなものです。彼らは集まっており、遊んでおり、組織とはならず、いつの間にか終わっています。参加した作家相互が観客として機能しており、フルクサス全体がこの展覧会の副題からも伺えるように「観衆」を念頭に置いています。ライブ的と言っていいでしょう。


フルクサスでは、観衆と''芸術''作品の再接合が目指されており、その際武器として用いられたのは「遊び」をメディア的に伝播するという手法です。オブジェクティブな作品はいずれも小さく、簡易な作りをしており(チェスや卓球などの)ゲームが援用されることがあります。また、本/パンフという形式が重視されています。アーティストブックの基礎的な概念はフルクサスにおいて出尽くしていると言ってもいいでしょう。多くの印刷物が作られ、事後も観客に印刷物に乗って伝播します。


また、フルクサスにおけるスカトロジックなイメージ(尻を出したキャラクターがフルクサスという文字を屁や大便のように「排泄」しているマークは有名です)はよく言及される事ですが、これは単に権威的芸術に対する反抗としてだけでなく、フルクサス心理的な側面を示していると思えます。便が幼児にとっての「世界への贈り物」であるように、フルクサスはその作品群を、文字どおり便=世界への贈り物として産出しつづけたように見えます。


その作品のサイズは基本的に小さく、各作家(やプロジェクト)の身体の一部のようです。また、各作品やイベントは計画によらず作家主体のある種の生理的リズムによって生産されます。それらの贈り物は、印刷などのメディアによって世界へ送り届けられるのです。


フルクサスの可能性として見ることができるのは、そこで待ち受けている観衆は、実体的な消費者ではない、理念の上での「未来の観衆」であったのではないか、ということです。恐らくコミュニストであったマテューナスが「(贈り物によって)繋ぎたい」と思っていたのは市場の消費者ではない観客でした。実際、フルクサスは経済的にはまったく成功せず、マテューナスは借金を残して死去しており、残されたフルクサスの資料や作品をもってその借金を返してほしい旨の言葉が残っています。現在のフルクサスの資料の公開は、このマテューナスの言葉に乗って行われているようです。この現実の負積が、フルクサスを未来への贈り物となるための駆動要因となっていることは象徴的です。


付け加えるならば、フルクサスが日本において注目される事のバックグラウンドは注意が必要です。1994年にワタリウム美術館で、また2001年に国立国際美術館フルクサス展がありましたが(僕はワタリウムの展示のみ鑑賞)、今回の展示は日本の美術館の企画で行われています。1960年代という、まだ貧しさの残っていた日本から、多くの作家が「ニューヨーク=世界的アートーシーン」に参加したこと、またそこからビックネームとなる作家が生まれ、後の日本人作家の「世界進出」の下地となったことなどが、その要因だと思えます。インターナショナリズムを唱えたマテューナスが「アジアの代表」として日本人およびアジアの作家を見ていた視線の中に「オリエンタリズム」が潜んでいた可能性は、なくはありません。そのことを考えずに本展覧会を見ることは、更に転倒した事態を産みます。


しかし、韓国に生まれ、日本に留学し、フルクサスを含めた欧米での活動を元にエクズキューズなしに「世界的芸術家」となったナム・ジュン・パイクなどがいることを考えると、やはり作品とは個々の強度により存在しうるのだと言えます。そういう作家の初期のステージとなったという意味では、フルクサスの存在意義は、多面的な部分はあっても、最終的にはポジティブに評価されるべきものだと思いました。

フルクサス展−芸術から日常へ