デュシャン展

横浜美術館デュシャン展を見てきました(http://www.yma.city.yokohama.jp/kikaku/duchamp/index.html)。
展示の出だしで、はたしてデュシャンの展覧会に足を運ぶ意味とは何か?ということが問われます。なぜなら、会場入口にある「泉」−便器−は、レプリカだからです。


今回展示されているのは、生前のデュシャンが承認したレプリカです。1914年のアンデパンダン展で出品を拒否された「オリジナル」の便器は存在しないのです。とりたてて美的でも無いその便器は、そもそも「デュシャンが承認した」という意義すら薄いと思えます。技術的に、寸分違わないコピーはいくらでも生産可能でしょう。またデュシャンはそのようなコピーとオリジナルの差を認めないでしょう。極端な言い方をすれば、横浜美術館内で使われている実際の便器(TOTOINAXのロゴが入っているといい)をそのまま展示室に置いても、コンセプト的に問題ないとすら思えます。1200円のチケットを買い、丹下健三氏設計の小奇麗な建築の展示室に入ったとたん味わうことになる、この居心地の悪さ、そして思わず漏れるシニカルな笑いこそが、デュシャン的な瞬間と言えます。


展覧会全体は、各カテゴリにデュシャンの作品とその影響下にある作家の作品が並列に置かれていて、分かりやすく明解な展示となっています。パイク、リヒター、ハーケ、コスース、森村といった作家達が、真面目に/あるいは不真面目にデュシャンをパクり、換骨奪胎してデュシャンが「終わらせた」筈の「芸術作品」を増殖させていく様子も、ある種の笑いを誘います。しかし、その笑いはどこか大人のテリトリーで遊ぶ子供のように、比較的健康な印象を与えます。デュシャンの作品がもたらす笑いは、ニヒリズムの極地と言えます。


そういったニヒリズムが最も端的に感じられるのが工業既製品(レディ・メイド)によるオブジェクト群です。制度(美術に限らず)があらわになり、しかし同時に制度というものの外部はありえない、ということもはっきりする「居心地の悪さ」。地面に走った亀裂の両側に足を置いて、真下を見るような感覚は、例えば宙吊りにされた帽子掛けや、椅子に連結された自転車の車輪を見た時に感じる拒絶感の「質」だけではない、展覧会に来る前から自分を形作っているあるシステムを意識してしまうことから発しているように思えます。しかし、意識してもそのシステムから自由になることはできない。笑いが凍り付くのは、こういう瞬間です。


デュシャンの絵画作品は、それとは若干違うものです。画家として出発したデュシャンは「階段を降りる裸体」を描いたあと絵画と縁を切りますが、それまでに描かれた絵は、デュシャンが何を切り捨てたかを示しています。デュシャンが描こうとしているのは、描くという行為が肯定してしまうことを否定する絵画、と言えます。描画、あるいは概念、思想といったものの「表現」の否定。絵画を否定する絵画というものは可能か?といった問いとして、「階段を降りる裸体」はあります。運動、形態の分解、あるいはそういった概念の援用それ自体は重要では無く(デュシャンは「表現」という行為から切り離されたものを−便器を選ぶように−選んだにほかなりません)、とにかく「描く」ということが包み込んでしまう全てを否定するものを、なお「描く」という行為の中で現出させようという困難な問いが問われています。


その、ある種の二律背反が「階段を降りる裸体」を緊張感のある作品にしています。この段階ではデュシャンニヒリズムはありません。描くことの否定を、なおあくまで描くという行為の中で追求しようとする姿勢は、むしろ極端に真剣であり、真面目であり、良くも悪くも誠実です。そして、1912年以降のデュシャンは、そういった誠実さ、「追求」という姿勢自体を対象化し、放棄したと言えます。その後に現れてきたのが工業既製品=レディ・メイドなのです。


レディ・メイドでのニヒリズムが、さらに違った方向性を示し始めるのが「大ガラス(彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも)」でしょう。この展覧会に出されているのもレプリカで、東京バージョンと呼ばれるものですが、ここにはレディ・メイドにはないある種の情熱が感じられます。しかしその情熱は、絵画で行われたような二律背反の止揚を目指したものとは違うように思えます。いくつかの図像が、作品と対になったノートによって「意味」を与えられ、「象徴化」されています。まるで夢の記述と、その分析のような作品です。それは、端的に精神分析です。


ここで、デュシャンがシュルレアリズムと交差していたことが想起されます。フロイト精神分析がシュルレアリズムに与えた影響は巨大ですが、大ガラスにおいて、デュシャンはあらためてそのシュルレアリズム的視線を取り戻し、精神分析に接近しているように思えます。そもそも「無意識」は精神分析という技法によって「表現」されたものであり、作られたものです。僕は、この大ガラスという作品に、デュシャンの「表現への反動的復帰」を見ます。そこでの「表現」は、もちろん従来の絵画や彫刻とは違った形態でなされています。それは分析という手続き=システム=技法によって、「無意識」のように(再び)発見され(直され)た表現なのだと思えました。


この展覧会の最も素晴らしい展示と思えるのは「遺作(1. 落下する水、2 .照明用ガス、が与えられたとせよ)」の再現作品です。泉や大ガラスのようにデュシャンの承認を得たものではなく、この展覧会のために立体画像とプロジェクターによって簡易に作られたものですが、デュシャンのコンセプトはほぼ完全に再生されています。このような簡易なやり方(もちろん実際の制作は相応に精密に行われていますが、原理的に)でデュシャンイデアが再現されたということ自体が、そこまでの展示にあった「権威あるレプリカ」への批評となっていて、改めて軽快に笑うことができます。


「遺作」の構造は、壁面に開いた穴を覗くと、遠景に滝がある草むらに倒れている全裸の女性の下半身が照明に照らし出されて見え、その性的な画像を覗き見ている観客を他の観客もまた見ている、というものです。大ガラスがデュシャンの夢の記述と分析であるならば、「遺作」は観客に夢を見させ、強制的に精神分析にかけ、それを更に外側から見るような物です。ここでは精神分析自体が対象化され、「精神分析という既製品(レディ・メイド)」を提出するという、デュシャンの文字どおり集大成的作品となっているように思えます。


こういった展示は、今までもなかったでしょうし、今後もないでしょう。今回見られる貴重な「オリジナル」や「レプリカ」にも増して、この終盤の「遺作の再制作」を体験できるという点で、改めてこの展覧会は見るに値すると言えます。

マルセル・デュシャンと20世紀美術