無印良品の家

有楽町の無印の店舗の中に立っている(!)無印良品の「木の家」モデルハウスを見ちゃった。

んー。無印臭い。あたりまえか。ブツはベースとなるプラン[5間×3間半 S 1]。ガルバリウムの外壁に白い木の構造と床。透ける階段+吹き抜けで壁なし=しきり無しは、最近の住宅の流行りアイテム。天上外してるのはずるいなぁ。そりゃ空間広くみえちゃうよ。キッチンが妙に広い。おさんどん係りとしてはやる気出るけど、流しから棚までが距離ありすぎて、調理中にやたら移動しなきゃならん。家具だなんだは当然全部無印。こんなの買ったら、文字どおり無印の奴隷。


この物件の一番の「売り」は「あんまり考えなくてもいい」ではないだろうか。建て売り住宅の定食メニューはなんとなくダサくて嫌だけど、気に入った建築家探して1から10まで自分で考えながら家建てるのもなんだか大変、という人に「それっぽい住宅が比較的さらっと建つ」という選択肢としてあるわけだ。微妙に高めの価格設定(5間×3間半で床暖込みで1700万弱)が苦にならない人はどうぞ。僕は面白みを感じない。だいたい絵描く床がない。「吹き抜け無しにはできないんですか」と聞いたら、「このタイプではありません。ただ、6間タイプの一部では、床面積が必要なひと向けに吹き抜けを絞ったタイプがあります」だそうです。売場のお姉さんは素敵に親切でしたよ。


無印ではコンクリートの家も開発中。

コルビジェのドミノ・ハウスを思い出す。偶然でもなんでもなくて、恐らく無印の家は20世紀初頭の近代建築の先達が考えた、「規格統一された工業住宅によって、低所得労働者に安価で高品質な住宅を供給する」というコンセプトを部分的にでも抱えているんだと思う。でも、どう考えたってこれは「低所得労働者」向きではない。明らかに「中所得労働者」向けだ。年収300万ではこの家を建てるのは難しい。つうか親の資産(ぶっちゃけ土地である)がないと無理。


もちろん、そんなのどこが考えたって難しいだろう。でも、その難しい事に本気でとりくまないと、コンセプトは「消費物」でしかなくなる。大部分の「低所得労働」を南の国の人々にアウトソーシングしちゃった豊かな日本で「中所得でソコソコ幸せ」な人々に、こういう「考えるという労働」までオマカセな家をぽこぽこ作る事に、どんな意味があるだろう?もちろん、郊外に並ぶ建て売り住宅群に比べれば比較的ましなのかもしれないけど。


コルビジェとかが考えた理念は、もっと過激だ。はっきりと富みの再配分/貧者をリアルに照準に納めた共産主義コミュニズム)なのだから。その理念の基盤には、経済システムがある。そこを見ない、考えないで、こういうオブジェクトだけ実現しても、それはスノッブでしかない。個人でこういう家を建てようとするならば、当然ある一定以上の価格にならざるを得ない。ではどうするか?文字通り、design−経済まで含めたdesignが必要な気がする。


国家の公共事業でやれっていうんじゃロシア-ソビエトになるわけだから、違うシステムを考えなきゃいけない。それは、たとえばコーポラティブハウスみたいに、「この住宅に住みたい人を数十人集めて、スケールメリットを生かして低価格化」とか、本当に骨格だけ作って、極力セルフビルド、とか、そういう提案が必要なんだと思う。


オブジェクトレベルではそれなりのものができるのは分かった。そのことには意義があるんだろう。次は、理念なんだ。それも抽象的なお題目じゃない。具体的な経済モデルを含んだもの。それが、現行資本システムの内部にある無印から出て来たりしても、僕は全然不思議じゃないと思う。むしろ、彼等が本気になりさえすれば、下手な哲学論議をくり返すよりも、よっぽど近道なんじゃないか。


少なくとも「無印の家コーポラティブハウス」ぐらいは検討しうる。いや、多分無印の家の中核にいる人は考えてる、はず(であってほしい)。問題は、カネなんだ。しかも、それを「コスト」問題と捕らえるのではなく、次世代の経済システムの突端として考えるスパンが必要なんだ。こういうのは、個々の野心的な建築家では考えられない。一定の顧客層を持った無印良品だから考えられる事なんだと思う。