石田裕豊展

フタバ画廊で石田裕豊個展「GEO-GRAPHICS」を見て来ました。
大判で厚みのあるアクリル板に、カラー写真のプリントが2枚ひと組で裏から接着されています。構図はオーソドックスでスナップ的なものもあり、特に写真作品として価値が認められるような像にはなっていません。ただし、どの作品もクリアで「謎めかし」のない光景が、丁寧に定着されています。建物の内部と、恐らくその建物に至る通路を撮影したもの、池と対岸の樹木、空を2回撮影し、1枚を上下逆にしてそれぞれの地面方向を繋げて提示したものなどが並んでいますが、特に高速道路を走る車の中から真後ろの様子と横の反対車線を撮影した作品に、この展覧会の構造がよく現れています。


車で移動中に、まず横の光景を見、次に後ろの光景を見た時、その光景を見た人は*1「同じ場所=車内」にいながら、横を見た時と後ろを見た時で、わずかな時間に大きな距離を移動しています。自分自身の意識は同一のものである筈なのに、外部は決定的に変化している。ほんのわずかな時間差であるにもかかわらず、「あの時」は遠く離れてしまい、そして「今」も刻々と自分から離脱しつつある。このことに気づいたとき、「同じ場所にいる同一の意識」自体が揺り動かされ、不安定に次々と取り返しのきかない過去に微分され、遠ざかり続けていることを認識します。


建物の内部と、そこに至る通路が並んでいる光景を並べて提示したものも、同じ構造をしています。同一の主体が、わずかな時間で建物の「外部」から「内部」に移動したとき(もちろんこの順序は逆でもかまいません)、質の異なる空間によって意識が分断されます。「外」にいた自分はもう帰らず、「中」にいる自分とは違ってしまっています。そして「中」に今いる自分も次の瞬間には、違う自分となっていることでしょう。


時間の経過、またはある距離を移動する事で認識される、不断に離脱しそのつど二度と戻らなくなる自分という主体の分裂、そのあやふやさを、石田裕豊氏の作品は提示します。それは写真というよりは、像を使った一種の装置であり、それを見る観客の意識をほぐして四散させるような効果を発揮します。工芸的に破綻なく(そういって良ければ「美しく」)、一切作家の身体性やエモーショナルな表現の要素を排して展示されている作品群は、静かでありながらそれに接する物をあっさりと切り分ける鋭利な刃物、あるいは冷徹なマシンのようでもあります。


シンプルな構造ながら、わずかに離れた時間と距離と視点を並列させることによって、かくも効果的な装置を仕掛ける石田裕豊氏の技術は瞠目に値します。会期終了間近。


石田裕豊個展「GEO-GRAPHICS」

*1:後ろを見ることが出来たということは、その人は運転をしていないと推定できます。意識が進行方向に統一されていないことに注意