痕跡―戦後美術における身体と思考展

もう終わってしまいましたが、東京国立近代美術館で「痕跡」展を見てみました(http://www.momat.go.jp/Honkan/TRACES/)。京都国立近代美術館からの巡回展です。


第二次大戦後の美術を「icon=何ごとかに似た美術」ではなく「index=何ごとかの結果としての美術」としてとらえ、結果=痕跡というテーマの元に120点もの作品で構成するという展覧会で、コンセプトのはっきりとした意欲的な内容と言えます。


展示に関してですが、会場を「痕跡」というテーマを更に「表面」「行為」「身体」「物質」「破壊」「転写」「時間」「思考」の8つのセクションに分割しており、同一の作家の作品が複数のセクションにまたがって配置されていたりします。絵画や写真など、平面性の強い作品が点数としては多いのですが、立体・映像・インスタレ−ションなども散見されます。各作品にはそれぞれ作家のプロフィールと、この作品がなぜこの場所に展示されているのかが記されたキャプションボードがつけられており、「文字量」が極めて多いのが特長です。


結果、展観は作品鑑賞とキャプションの読解がほぼ同程度の比重で必要となり、相応に時間をかけて会場を巡ることになります。作品それ自体を見ることと、その作品にこの展覧会が与えた文脈を読取ることが共に求められるのです。キャプションと作品図版に加えて企画者のコンセプトをまとめた論文等が収録されたカタログは、この種の展覧会のものとしてはかなりのボリュームとなっており、それはこの展覧会においてのカタログ=言説が、作品展示の補助ではなく、中心的な役割を果たしていることのあらわれと言えるでしょう。


もう一つの特長としては、欧米のビッグネームの作家、戦後美術史の中心となるような作家の作品に拮抗させるように、あまり知られていない作家、評価がけして安定はしていない作家・作品を展示、再評価している点があげられます。具体美術協会の作家をフォンタナやサイ・トゥオンブリなどと並列に置くことで双方に共通点を見い出し、場合によってはネーム・バリューの小さな作家の方が、時代的に先駆けて「重要」な課題に取り組んでいることがキャプションで明示されていたりします。いわば国際的な共時性が強調された展示とも言えます。「具体」の作家の他には国内で未紹介の女性作家の紹介や、辰野登恵子氏の初期の作品なども展示しており、従来の美術展/美術史において周辺的な位置にあった作品群のフレームアップが目立ちます。


まず肯定的に評価したいのは、この展覧会全体がはっきりと「批評」となることを目指しているところです。戦後の「現代美術」において重要な流れをindexの美術であると規定して、20世紀初頭から展開してきたモダニズム、主知的美術への異和の表明と捉え、従来の美術史を再検討して、そこで十全に評価されていなかった作品にも重要性を与えるといった展示は、「美術館」の本来の役割を果たすものです。これは、最近の国内の美術館・美術展が観客動員に追われて単なる名作主義、既に確定した評価の追認に過ぎない豪華主義に陥った名作展になっていたり、親しみやすい美術(館)の名のもとに、批評性など度外視したイベントパーク化している現状を考えると、賞賛されるべきことと思えます。


後に述べますが、そこで展開されている「批評」に対して反-批評、否定的な反論があるとしても、そもそもそういったことが可能になるには、「あるコンセプトの元に評価を下す」という「責任」を展覧会が負っていることが前提になるのであり、こういった事態こそが真に開かれた美術展・美術館であるといえます。美術展を「大人から子供までが楽しめるイベント」にしてしまったり、美術館の建物を「開放的」に作れば「開かれた美術(館)」が実現できるといった、安易な考えが溢れているなかで、原理的な意味での「開かれた美術展」を実現しえたことは、貴重なことだったと言えます。


その上で、あえて批判的な事を述べるとすれば、まずはネガティブな意味での「美術館の権威主義」を挙げたいと思います。作品をそれ自体は価値をなさない記号ととらえ、その価値を付与するのは、単に散乱している作品群をしかるべき文脈に再配置する美術館であり、戦後の(価値ある)作家は知性から離れた「野生」である(べき)といった宣言を、カタログの冒頭に記してしまうのは、あまりに乱雑な設定ではないでしょうか。僕が先に述べたように、美術館はある批評性の元に責任を負うところに、事後的に「権威」が発生するべきものであり、その「権威」はあくまで観客のみならず、作家・作品からの再批評に対して開かれているからこそ成り立つものである筈です。戦後美術に先行する主知的モダニズムに対する批判といった流れがあることは認めるにしても、そういった作品はそのことを原則的に理解した上で制作されているものであり、その批評性は作品に内在します。


事前に作品を「もの言わぬ野生(の痕跡)」と設定してしまうのは、作家のみならず作品それ自体からの「反論」を封じ込めてしまいます。そもそも、そういった「反論」を生み出しうるような作品・作家こそが評価されるべきものなのであり、今回の展覧会のコンセプトに“盲従”してしまうような作品は、そもそも評価に値しないのではないでしょうか。今回の展示には、そういった力の弱い、評価にふさわしくない作品が若干まぎれこんでいるように思います。また、戦後美術の中で相応に重要なセクションであるはずの「思考」の部分の展示がボリューム的にも質的にも貧弱になされているのは、この展覧会の弱点を如実に示しています。このセクションが設置されていること自体は評価できるのですが、全体の枠組みに対して揺さぶりをかけかねない「思考の痕跡」に対応する作品を充実させることは、おそらく逆に展覧会全体の批評性を高めた筈です。


次に、この展覧会の主要部分を「身体の痕跡」とはっきり言い切っているように思われるところにも疑義を覚えます。八つのセクションは均等な比重ではなく、明らかに「表面」「行為」「身体」「破壊」のセクション、主に前半から中盤にかけてのセクションに力点が置かれています。「表面」とは身体の表面=皮膚であると明言し、作品の表面、キャンバスなどに働きかける(この展覧会の言い方を借りるならば「毀損」する)制作をある種の自傷行為に重ね合わせている点などに顕著なのですが、他にもあからさまに作品の「等身大」という特長に焦点を合わせているところなどは、ほとんどフェティシズムに接近していると思えます。


思考のプロセスを排した、作家-作品の直接的接地、そのダイレクトさを見せ、その身体(の痕跡)の直接性を観客が自らの身体感覚に直結させて「体感」できるというところに作品の強度を保証させるといった展覧には違和感があります。そもそもそういったフレ−ムは企画者が言説、すなわちキャプションと展示構成で成立させているものであり、作品それ自体は、そういった枠組みから外れているものが目立ちます。要するに先に「企画」があり、それに一見あてはまりそうな作品を集めてきている印象があるのです。コンセプトがあることはもちろんいいのですが、少なくとも美術作品を取扱う者は、作品それ自体に誠実に向き合い、まずは作品の存在そのものを認めるところから全てを開始すべきだと僕は考えます。分かりやすく言えば、無理に型に合わせて作品を集めるよりは、もうすこし作品点数を絞っても良かったのではないでしょうか。


更に言及したいのは、この展覧会が「救っている」作品についてです。今まで紹介されていなかった作品、あるいは十分に検討されてこなかった作品に改めてスポットを当てることは肯定されるべきですが、しかし、そこで「救出」されている作品は、けして作品それ自体の強度に着目したためではなく、「女性」や「地方性(ローカリズム)」といった、政治的要素で決定されています。もちろん、男性/中心主義といったものが美術において機能している事実はあるでしょうし、その編み目から漏れている作家・作品をフレームアップすることは相応に意義深いのでしょうが、「女性/地方」を「男性/中央」に回収するといった行為の結果、そもそもの「権力ある性/中心主義」自体は温存されています。


こういったことをいくらやっても、回収された性/地域の、さらに外側に「さらに疎外された性/地域」が発生することになり、抜本的な構造に対する批判-批評とはなりえていないのです。「疎外された性/地域」を問題にするならば、具体的に美術史の編み目からこぼれている作品を拾い上げながら、その手つきに、その基礎的な構造自体を解体するような「企画意図」が練られるべきだったのであり、そういった意味では、現在東京都写真美術館で行われているベネチアビエンナーレ・建築展の日本館の帰国展である「OTAKU-人格・空間・都市」展と共通してしまう、ある種文化人類学的展覧会になってしまっているところがあります。


全体に、これらの問題点の多くが「作品個々にしっかりと向き合う」という基本的な部分を(意図的に?)飛ばしていることに起因しているように思えます。もちろん、作品を見るという行為は「文脈」を外した「純粋な作品経験」としてありうるわけではないですし、そもそもこの展覧会が、最初から「意図的な文脈の再構成」を出発点にしている、という事もあるのでしょうが、そういった「コンセプト」と、作品を「丁寧に見る」ことは、もっと高い次元で両立可能な筈です。


問題点の指摘に字数を割いてしまいましたが、最初に書いた通り、こういった批判的な視点を持ちうるだけの野心的な企画展であり、そのことの価値は改めて言っておきたいと思います。国内で行われる美術展の一定の割り合いが(全部なんていう贅沢は言いません)この「痕跡展」の水準を超えていくならば、とりたてて派手な公共事業で珍奇な美術館を乱立させなくても、状況は良い方向に変化する筈です。