死刑について

もともと哲学的な素養も教養もないので、そういった方向からはアプローチができません。本もちらりと読みましたが、概念としては理解できても、手触りというか、手ごたえとして、捕らえることができないのです。


僕の身の上や周辺に何ごとかの出来事が起きて、僕が誰か他の人に死んで欲しいといった感情が起き、それがどうにも止めようのないものだ、という結論に至れば、僕は僕の手でその誰かを殺したいと思います。国家や法律というものに、その行為を肩代わりされてしまうわけにはいかないと思うのです。自分の愛する人が殺されたり、誰かの有形無形の暴力によって、僕自身や僕の愛する人が決定的に損なわれたというとき、その代償を相手の死に求めるならば、その殺人を、誰か他の人に肩代わりされても、何にもならないと思うのです。その殺人は、僕が行うべきなのだ、僕が殺したいのだ、僕が殺さなければ、何にもならないのだという思いは、確かなことだと思うのです*1


他の誰かの手で、僕の殺すべき人が殺されるという事を考えた時、僕はその肩代わりの殺人を、決して許すことができない。その人は僕が殺す。今殺せなくても、いつか殺せるかもしれない、その可能性を消し去ってしまうような肩代わりの殺人は、阻止しなければならない。


自分が誰かを殺したいと思っていて、でもそれを自分の手で行うのは恐くて、そのまま誰かを殺したいという気持を抱えて生きていくのが、あまりに辛すぎる、誰かに、何ごとかの制度に肩代わりをして欲しい、と思う事はありうると思います。しかし、そのような代行の殺人で、自分の中の何ごとかが肩代わりされる事はあり得ないのではないか。ありえないのであれば、僕は全ての代償を、断念するしかないのではないか。


断念した上で、なお生きていこうと思うのなら、いかにそれが不条理な事であれ、それはもはや、僕の、あるいは僕の家族の課題であって、その課題は、やはり誰にも肩代わりしてもらうことはできないでしょう。そもそも、それがどのような種類の問題であれ、自分が負わされてしまったものは、誰にも肩代わりしてもらえないと思うのです。


肩代わり不可能なものを肩代わりされる、されてしまうことは、むしろかえって生き残ってしまった時の僕を、僕の家族を、より深く損なうでしょう。僕自身が殺すべき人は、僕自身が殺す。僕がそれをしない、僕にそれができない、僕にそれが許されないのなら、僕は他の誰にもその肩代わりを許さない。ですから、僕は、自分が被害者になった場合、あるいは被害者の家族・遺族になった場合、その犯人を死刑に処することに反対したいと思います。

*1:そして、僕自身が報復という形であれ何であれ直接に殺人者あるいはそれに準ずるような犯罪者になった時、僕は自分自身の扱われ方について、何も語ることはできないでしょう。その可能性は常にある。