「灰色日記」さんで、僕の昨日のエントリ(id:eyck:20050301)に対する疑義が提出されています。

僕のエントリは粗雑なもので、それをここまで丁寧に読んで下さったことに、まず感謝したいと思います。僕のエントリを取り下げるようかとも思いましたが、それではかえってきちんと反論を提示された「灰色日記」さんに対して失礼になる気がしましたので、改めて応答させて頂きます。


A.僕のエントリの要旨
僕のエントリの結論は、「僕は、自分が被害者になった場合、あるいは被害者の家族・遺族になった場合、その犯人を死刑に処することに反対したいと思います。」です。
僕の文章の構造は混乱していますが、以下のようなものです。

  • 僕及び僕が大切に思っている人が殺人、またはそれに準ずるような損なわれ方をした時、僕はその「報復」として、対象の「犯罪者」に対して殺意を持つと思う。
  • それは、「僕」の問題-報復なのだから、原理的に「僕」が行うべきものである。
  • しかし、死刑は、そのような「僕」の報復を奪う。
  • 結果的に、「僕の報復」は宙吊りになる。
  • また、そもそも「報復」によって、個人の課題は根本的な解決に至らない。
  • 結論として、「僕は、自分が被害者になった場合、あるいは被害者の家族・遺族になった場合、その犯人を死刑に処することに反対したいと思います」。


B.そのような結論にいたる前提
A.で述べたような文章の前提には、次のようなものがあります(この部分が、昨日のエントリでは完全に欠落しています)。


日本では死刑制度が存続しており、現に執行されており、そのことに今まで声をあげてこなかった(考えてこなかった)僕は、結果的にその事に賛成していることになります。しかし、それは妥当なことなのか?という思いから、いろいろ考えてみたのです。
死刑制度は、僕には以下のようなものだと思えました。

  • 死刑制度は、犯罪者の矯正には当然効果が無い。
  • 社会が認めていない殺人を社会が行うというのは、原理的に矛盾している。
  • その原理的矛盾を無視しうる、「現実的効果=犯罪抑止効果」が高いとは思えない。
  • そのうえで死刑制度が存続しているのは、突き詰めていえば死刑が「報復」であるからだ。

しかし、A.で述べたように、その「報復」は妥当性を欠いています。


C.具体的応答
「灰色日記」さんの論は以下のように要約できると思います。詳細は「灰色日記」さんの本文をお読み下さい。
1.自分でコントロールできないような感情で行われた報復には、主体性がないのではないか。
2.「やられたらやりかえす」というのは、次元の低い感情論でしかない。
3.代償としての報復は無意味だ。
4.どんな犯罪であれ国家や法律は報復を許可しない。永瀬の論は、死刑だけでなく、刑罰全体の否定と読める。
5.「灰色日記」さんご自身は、死刑に反対である。理由は、刑は報復ではないにも関わらず、死刑は報復でしかないからだ。
6.感情として許せない・止められない、というある種の「実感」は普段から押さえる必要がある。実感からの感情論を、事が起きる前から持つことは、安易な行動(殺人)に人を誘い込むのではないか。
7.人を殺すということがどういう事なのであるのかということを、人は常に考えつづけるべきだ。


まず、僕の論と近い部分があります。3.に関しては、僕の昨日のエントリの、タイトル以下の4段目「そのような代行の殺人で、自分の中の何ごとかが肩代わりされる事はあり得ないのではないか。」5段目「それがどのような種類の問題であれ、自分が負わされてしまったものは、誰にも肩代わりしてもらえないと思うのです。」がそれです。


4.に関しては、僕がそもそも説明不足なのですが、僕の昨日のエントリは、「死刑」に限定している話だということを御理解下さい。
5.において、「灰色日記」さんが「刑罰=矯正という私の捉え方からいうと、死刑は報復ということにしかならない」とおっしゃっていることには同意見です。


問題となるのは、1.及び2.です。僕は、ここに関して、論としての反対意見はありません。その通りだと思います。ではなぜ昨日のようなエントリ、「極端で次元の低い感情」に基づいた文章を書いたのかと言えば、そのような、極端で、次元の低い感情が、僕の中にあるからです。それだけなら「そんな話は公開されたwebで書くな」で終わりですが、僕には、この「極端で次元の低い感情」が、「世界」に繋がっていると思えるのです。そして、その「極端で次元の低い感情」を切り離しては、この「世界」に対することはできないのではないかと思えるのです。2.のような、根本的に否定的なものが、この「世界」の基底に刻まれているのではないか。そして、1.に繋がるのですが、そのような「世界」にいる自分は、その根本的否定の一部としてあり、低次元な感情に押し流されるような自分が確かにいる、と思えたのです。


そのような「極端で次元の低い感情」を、いわば「次元の高い論理」“だけ”で覆すことはできないのではないか、というのが僕の気持ちです。感情に流されて殺人を行ってしまうような自分を認識しながら、それを「正しい」認識で単純に否定するのではなく、そのようなネガティブなものと拮抗するような形で「なんとか乗り越えようとしていく」ことが、必要なのではないかと思ったのです。


報復として人を殺してしまうような、次元の低い自分がいる。しかしその「報復の完全性」をつきつめれば「死刑」は否定せざるをえなくなるし*1、そもそも報復によって自分が背負った課題を解決することはできない*2。こういった階梯を踏まなければ、死刑も、報復といった行為も、否定できないのではないかというのが、僕が昨日のようなエントリを書いた動機です。


6.に関しては反論したいと思います。僕のエントリは一応「感情論そのもの」ではなく「感情論の検討」であって「実感からの感情論を、事が行われる前から持つ」ものではないのです。言葉が乱暴で、分かりにくい点は謝罪します。


また、こういった極端な感情を普段から検討しておくことは「極端な場面」が来た時のために重要だと考えます。もちろん、どのような場面であろうと冷静であると言い切れる人なら別ですが、そうでないのなら、自分の感情的な側面の存在を認め、考えておくことは意義があると思います。また、それが普段から押さえられるものならば、安易な「許せない・止められない」という感情はもちろん抑制されるべきものです。そういう意味では同意しますが、しかしなおかつそれを超えるような感情に見舞われた時のことを想定する事も、生死に関わるような問題であれば、必要になるのではないでしょうか。


7.に関しては同意します。「灰色日記」さんの、真摯かつ重要なメッセージであり、敬意を表します。


以上、長々とした言い訳みたいな文章でした。再度検討する機会を作って下さった「灰色日記」さんに改めて感謝します。

*1:昨日のエントリの2段目「その殺人を、誰か他の人に肩代わりされても、何にもならないと思うのです。」同じく3段目「今殺せなくても、いつか殺せるかもしれない、その可能性を消し去ってしまうような肩代わりの殺人は、阻止しなければならない。」

*2:同じく5段目「それがどのような種類の問題であれ、自分が負わされてしまったものは、誰にも肩代わりしてもらえないと思うのです。」