嶽本野ばら:「おバカ」の力

今日は脱線。最近脱線ばかりしてますが。
嶽本野ばらの「鱗姫」と「下妻物語」をなかなか面白く読みました。今日は「鱗姫」について書いてみたいと思います。「下妻物語」に関してはそれなりに語られているようなので。ネタばれがありますので、未読の方は注意して下さい。


「鱗姫」は、「ゴシックロマンンス」などと言われて、いわゆる文学をマジメに語る人からは無視されてしまう、また逆に、異端文学好きな人に、ある種の誤解に基づいて愛好されてしまう危険性がありますが、これはそんなにカンタンなものではないと思います。一言で言えば、「おバカ」の力で、「ゴシックロマンンス」みたいな単純で安定した「物語り」を壊し、同時に「おバカ」の力で文学全体に対峙していると思えます。


お話しとしては、古典的な耽美系、ロマンティックでエロティック/グロテスクな設定で、ある因縁から異形の存在と化した妹が、通常の世界に取り残されてしまった兄と近親相姦に至るというオーソドックスなものです。こういった、小説というよりは神話/物語りに近いものというのは、一般に文体も美文調で、全体の構造も安定しているものだと思います。ある意味伝統ある「異端文学」というのはたくさんあって、そこにはパターン、お約束*1があり、退屈なものが多いです。


野ばら氏の「鱗姫」が最終的に退屈な物語りではなく、魅力ある小説になっている部分があるのは、文学のお約束を壊し、お話全体が破綻している所です。


まず文体、言葉の使い方が特徴的です。下妻物語で顕著ですが、野ばら氏は、今の、しかもある特殊な趣味を持った女の子の言葉使いを文章の中に持ち込みます。


少女マンガの言葉を小説に持ち込んだ例としては吉本ばななが有名ですし、その前には新井素子というSF作家が起源として存在します。橋本治も高校生の口語を使いました。が、野ばら氏は、更に現代社会の中でも周辺的な位置にある、ロリータファッションの言葉を小説に持ち込んでいます。要するに、既存の、ある程度評価の定まった「反/非-文学」という文学に対して、さらに反/非-文学的なのです。


もちろん、文学的な所に文学はなく、従来の文学の通念をはみだすところに文学の可能性があるのだとしたら、野ばら氏の「ロリータファッションの言葉」という武器は、極めて有効な武器たりえます。


「鱗姫」ではロリータファッション色は薄れますが、そういった女の子の言葉を持ち込むというところは共通しています。これは、今までの耽美的美文で書かれた「異端文学」を無視した態度だと思います。「重厚で神話的である意味安定している異端文学」を、更に軽薄な-おバカな現代口語で壊してしまうという、面白さが出ているのです。


僕は最初に、世界観としてはオーソドックスと書きましたが、しかし、小説の構造自体にもその安定した世界観を壊すような戦略が仕掛けられています。それがはっきり分かるのは、最後の場面で主人公の妹と兄が、単純な勘違いで愚かな刑事を殺してしまうところです。彼等が懸命に「暴いた」筈の、叔母の秘密がたんなんる勘違いで、その結果、殺す必要のない人間を殺してしまう。しかも、とくに価値ある人物ではない、粗雑なだけの人物を勘違いで殺す。加えてその方法がスマートではありません。わざわざ趣味的に「鋼鉄の処女」という有名な処刑器具を使うために、主人公達は泥臭い力仕事をします。要するに、主人公はいかなる意味でも優れておらず、とことん「おバカ」なのです。


主人公が「世界の秘密/真実に触れて、性的禁忌に及ぶ」という、古い文学のイメージを壊すものであるのはもちろんですが、しかし、「新しい」小説においても、その主人公が、なんらかの意味で特権的な「優秀さ」を示すことは、よくあると思います。それがたとえストリートでサブカルにまみれている高校生であれ、ラッパ−であれ、彼等はそういった周辺的な文化を特権的に肯定し、その周辺性自体をもって「優位」であろうとします。「馬鹿」だったり「暴力的」だったりしても、その「馬鹿」「暴力」自体が作品内で優越的に語られ、結果的に彼等は「(比較的)優れた存在」となりがちなのです。


しかし、野ばら氏の主人公は徹底して「おバカ」です。「鱗姫」では「世界の真実を暴いた」主人公が、その真実の力によって、近親相姦という侵犯にいたるのではなく、「おバカな勘違い」を契機に逃避的に近親相姦してしまう。この「おバカ」っぷりは、「ゴシックロマンンス」も「文学」も、「現代の若者の危機感」なども脱臼させてしまいます。


「おバカ」には、単なる「馬鹿」にはない、留保抜きの底抜けたものがあります。「下妻物語」は、その「おバカ」っぷりが全面に出ていて相応に面白いのですが、あまりに「おバカ」を全面にだし過ぎて、最終的に「おバカの優越性」を描いてしまったところがあります。その点、ムーディーになりようのない文体で「グロテスク」を書き、エロティズムが発生しようのない「勘違い」を契機にした近親相姦を書いてしまう、「脱臼ロマンス」である「鱗姫」は、その脱臼のおバカさ加減によって、逆説的に小説として成立していると思えます。

そしてもちろん、その「おバカ」さを縦横無尽に使いこなして、物語りに、従来の小説に攻撃をしかける嶽本野ばら氏は、極めて聡明な作家なのだと言えるでしょう。小学館文庫で読む事ができます。興味ある方はどうぞ。

*1:とんねるずだよな元は。すでに古い?