西澤千晴展

終わってしまいましたが、東京画廊で西澤千晴展を見て来ました。
キャンバスにアクリルで描かれている絵画です。15号から50号程度のサイズの作品が中心で、それほど大型の画面ではありません。小さいものはF4号程度だったでしょうか。グレーの地に、町並みや道が俯瞰で描かれ、そのあちこちに、スーツ姿やモモヒキ+腹巻き姿の「おじさん」、あるいはワンピース姿の女性(おばさん?)が点在していたり群れていたりします。


俯瞰(図)の角度は、どの作品もほぼ同一で、町並みまでの距離もだいたい同じです。その結果、画面内の多数の登場人物は大きさが一定です。また、彼等の服装、体型、髪型も決まったスタイルで、一見個別性はないように思われます。


しかし、子細に見ると画面のそこここに様々な出来事が展開しています。テーマが「ガーデニング」ということで、都会の郊外のような、起伏のあまりない空間が建て売り住宅のように区画され、その区画内で、上記のような人物(群)が、庭仕事をしていたりパーティーや酒盛りをしています。また、「おじさん」たちがブルド−ザ−で山積みにされ、トラックで廃物のように搬出されていたり、庭に埋められ肥料にされていたりする場面もあります。


西澤氏の作品では、作品個々の世界や登場人物が均質です。どの作品も基本的に同様の技法で描かれ、いわゆる「マチエールらしいマチエール」は見られず、平滑な画面になっています。色彩や色調もある一定の幅で揃えられ、際立って明るい絵も暗い絵もありません。また、登場人物も上記のように同じ大きさ、同じ外見であり、彼等が配置されている空間も、俯瞰図という、画面内の全ての場所が均一な空間になるような場に設定されています。そして、そのような均質性の中で、登場人物(群)の「仕種」が浮かび上がっていきます。それらの「仕種」は、俯瞰図という画面の性格上、全てが細部で行われます。


西澤氏の作品を見る観客は、会場全体から、任意のある作品の画面に近付いて、画面の各所で発生している様々な出来事を読み、また次ぎの作品に移ります。しかし、そこで各観客が読取っているものは、恐らく多様である筈です。画面中の各登場人物の、誰と誰が関係しているのか、あるいは関係していないのか、そこに図示されている出来事が、どのような出来事なのかは、見る人ごとにずれているのではないでしょうか。


ある人が読取った出来事が別の人には見落とされ、ある人が見た出来事が、2回目に見た時は違う意味合いに読み取られる。観客は作品の前で、そのつど固有の距離で作品を細かく見、固有の時間を過ごします。さらに、個々の作品を見ながら、徐々に各作品の間の差異および関係性が読み取れます。ある作品の中で起きていた出来事が、別の作品で意味をもってきたりします。「おじさん」あるいは「おばさん」に個別性がないことから、会場内のあらゆる「おじさん」「おばさん」が、瞬間ごとに、同一人物に見えたり違う人に見えたりします。ある作品をみながら、別の作品を重ねて想起する「思い出し」も、さらに目の前の作品を多様化させます。


徹底した枠組みの均質化が、逆にその中での小さな差をフレームアップし、見る人ごと、見る度ごとの経験を微分化しているとも言えます。また、この、細部を目を凝らして見させてしまう作品は、そのマチエールも観客に気づかせます。フラットな地にマスキングを施して描かれた人物は、その輪郭が幽かに、しかしソリッドに立ち上がっています。更に、一見フラットに見える塗りに、絵の具の粒子やキャンバスの微細な凹凸も感受されます。通常であれば目に入らない、小さな物質の徴候が、いわば顕微鏡で見るように拡大されます。


今回の西澤千晴展は、絵画の「絵画性」、その特徴的な武器をギリギリまで抑制しながら、しかしある地点で一気に反転し、イラストレーションとも「絵画っぽい絵画」とも違う作品群を提出していると思えます。独特の世界観、ネガティブなものを内包しながら、その全体をあるユーモアによって肯定していく西澤氏の視点も魅力的ですが、その魅力の背後にある、冷静な「絵づくり」が、作品の根本を支えているのだと思えます。

主な作品画像は以下のURLで見られます。興味ある方はどうぞ。