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練馬区立美術館で見た「創造のさなかに−ただ今制作中!−」展での岡崎乾二郎氏の「タンスシアター」は、ぶっちゃけダメダメでした。館内の通路にタンス大の人形劇場みたいなものを設置して、そこでいろいろな出し物をするんですが、かなりイマイチ。
唯一面白くて、「この企画の意図はこういう事だったんだろうな」と思わせてくれたのは、アシスタントの女性二人が交互に室生犀星の“女性の二の腕”に関するフェティッシュな文章を読み上げる中で、タンスシアターの中から突き出た岡崎氏の無骨な腕(腕以外はタンスに隠れて見えません)が、うねうねと動くというやつです。ここでは観客は、女性の二の腕の美しさを描写する言葉を聞きながら、「腕」という共通点はありながらも男性である岡崎氏の無骨な腕の奇妙な動きを見る=すなわち、耳で聞いた言葉のイメージと、目でみるもののイメージが微妙に重なりながらも全然別方向に駆動していき、その知覚のズレがいわくいいがたいヘンな経験として観客に感受されるというもので、これは岡崎氏の作品とタイトルの関係に近い効果を上げていました。
しかし、それ以外の演目はおおかた難破。小説「魔の山」を岡崎氏が読むと、タンスシアターの中で「山」がその文章に反応して動くやつ*1は、テキスト中の山の描写をシアター内の山が一生懸命後追いしていて、ズレに「質」がありませんでしたし、銀河鉄道の夜をやはり岡崎氏が読み上げる中でシアター内に(この時はゴムが張られてます)野菜が投げ込まれ、その中で野菜がビョンビョン飛び跳ねるというのも、岡崎氏の「説明」をなぞるものとしか思えませんでした。
思い当たる解決策としては、「岡崎氏は一切表に出ない」というのが有効だと思います。当日の現場では、明らかにユルい「出し物」が、結果的にでしょうが岡崎乾二郎氏という存在に依存してそのユルさを埋め合わす形になってしまっていて、それではどうやっても作品の自立は成り立ちません。最初から「岡崎氏の存在感」を消してしまえば、演目の成立過程にもう少し違うベクトルが働くのではないでしょうか。唯一面白みが出ていた「二の腕」の演目が、岡崎氏がシアター内に入っていてその姿が見えなかったというのは、単なる偶然ではないと思います。
会場で展示されていた絵画作品は興味深かったのですが、それでも気になった事が一つ。あの輸送用の梱包がされて壁に裏返しに立て掛けてあった絵画作品は、もしかして「ただいま制作中!」なムード作り?なんでしょうか。ごく普通に、梱包を外して壁面にかけてくれた方が刺激的だった筈です。
今回新鮮だったのは、岡崎氏の立体の画像で、岡崎氏の彫刻をきちんと見た事がない自分としては、改めて「岡崎乾二郎彫刻展」をどーんと見てみたくなりました。どこかで企画してくれないかなぁ。「あかさかみつけ」も改めて見たいのですが、難しいんでしょうか。
*1:タンスシアターに幕が張ってあって、中に人が入って頭で持ち上げて「山」になり、いろいろ動く