表現の水際展

旧大蔵省関東財務局横浜事務所で、表現の水際展を見て来ました。東京芸大先端表現科の生徒及び卒業生による展覧会です。今回は、池田孔介氏の作品について書きます。


池田氏の作品は、鏡の裏側の銀を削り、キャンバスの上に重ねて金属のフレームに入れたものです。長く使われていなかったという古い建物内の壁面に掛けられていますが、一つだけ会場の窓にはめ込まれた作品があります。作品数は大小合わせて5つです*1。窓にはめ込まれた作品以外は、いずれも鏡の削り跡が透明になってキャンバスの布が見えています*2。削り跡の狭間に鏡面として残った部分があり、そこに室内空間が写りこんでいるのが特徴的です。削り跡は短い弧を描くストロ−クやタッチとなっていて、ある部分では密に、ある部分では粗になっています。このタッチはグラインダーによって刻まれたと思えるシャープなものです。見方によっては、鏡を挟んで対称に拡がった空間に、ただタッチだけが浮かび上がっているような感覚も与えます。


この絵画(と言ってよいでしょう)作品群で興味深いのは、「乾いている」ところです。一般に絵は紙や布などの表面に油性・水性の塗料を塗布することが多いのですが、池田氏の絵画には、いかなる塗料も使われていません。もちろんどんな塗料を使った作品でも大抵は乾燥してから提出されるものですが、そういった作品に油分・水分が含まれていたということは、にじみや絵の具の垂れ、筆致、マチエールなどから推測できるものです。そして、そういった筆致やマチエールが「イメージ」させる油分、水分の存在は、その作品の基礎的な機能を規定します。一概にはいえませんが、そのようにイメージされる油分・水分は浸透感覚や身体感覚を惹起し、観客と作品を「つなげる」役割を果たします。しかし、この池田氏の作品には、物理的に油分・水分が含まれておらず、過去にも含まれていた痕跡がありません。


また、そこにしるされた、鏡の裏の銀を削った跡=タッチは、作家のダイレクトな身体の軌跡とは感知できません。まずその削り跡はガラス面の裏側にあり、作品表面は当然ガラスの平滑な面であって、削り跡の「触感感覚」が一度遮断されています。ストロークの曲線も鋭利でありながらガラス面を破損しないよう繊細にコントロールされていて、筆や刷毛といった道具による筆致が引き起こす肉体的な感覚が慎重に回避されています。池田氏の作品が特異なのは、あくまでタッチを刻むという「絵画的」な行為を積み重ねながら、そういった行為が産む「絵画的要素」を一つづつ、丁寧にズラしてゆき、(写真でも版画でもない)絵画から「絵画的なものの力」というものを排除して、なお絵として成立しうる作品を提出している点です。


鏡にタッチが刻まれることで「像」ではない「物質=鏡」が意識されます。絵が、絵の具や筆の跡などによる「絵画らしさ」によってなりたっているとき、観客はそういった絵画らしさの「力」に支配されながら、実はその「絵画らしさ」自体は意識されず、そこに「深さ」や「崇高さ」を見ます。池田氏の作品はそういった、絵画の構造をずらすことで絵画のフレームを照らし出しながら、けしてシニカルにはならず、改めて絵画というものの可能性を見極めているように思えます。会期修了間近。


●表現の水際

*1:ポートフォリオと並んで置かれている習作は除く

*2:窓の作品の、銀が削られた部分は当然外が見えます