ここんとこのレビューの文体が硬いな、とお思いの貴方。すんませんワザとです。ちと崩します。


ポーラ美術館の展示では、セザンヌやモネ、シスレーなんかをじっくり見たんだけど、意外な面白さを感じられたのがルノワ−ルの彫刻でした。そんなに大きくないブロンズの裸婦像で「ヴェ−ルをまとう踊り子」と題されています。カタログによると高さ63.6cm、1918年作とされてるけど、鋳造年が1964年で鋳造番号16/20とされているから、20個作られたコピーの16番目の作品、ということになるのかな?この辺はよくわかんないです。


歪んだ三角形の台座に、右足を前に出し、左足を引いて裸婦が立っています。下半身はしっかりと豊満で上半身は逆に引き締まっています。やはり台座の右足後ろから立ち上がっている絞られた布を左右に広げた両手で持ち上げていて、この布と両手が正面から見ると菱形を描いています。


向かって左手側面から見ると台座を底辺に、布とそれを持つ手を左辺、やや後ろに重心がある裸婦の上半身から前へ出された足を右辺とする三角形を成しています。逆に向かって右手側面から見ると、ふくらはぎの後ろから立ち上がる布が前まで手によって引っ張られ、裸婦の前に出た足から後ろに傾く上半身と交差して、X字を描いて見えます。


この彫刻を面白くしているのは布と両手が描く菱形の空間で、その大きな環を裸婦の胴体が貫通しているわけです。これによって、裸婦の身体そのものの形態というよりも、布・両手と身体の間を抜けてゆく空間の「関係」が立ち現れてきます。言い方を変えると、ブロンズによる身体の形態と、抜けていく虚の空間のせめぎあいが複雑な線や場を作り出していて、単なる裸婦像に留まらない、ある抽象性を獲得しているように思えるのです。ガラスケースにおさめられたこの小品を、ぐるぐると周りながらいろんな角度で見ていると、どんどんいろんな空間が現れて来て、全然飽きませんでした(ケースが壁に接して置かれていて、真後ろに入り込めないのが残念です)。


裸婦と布というのは当たり前の組み合わせなのだけど、僕が知っている古典彫刻では裸体を隠しながら浮かび上がらせる、身体と一体になった布の襞の豊かさ、美しさが主題となるようなもので、このルノワ−ルの作品のように布を空間の複雑化の材として扱ったものは覚えがありません。実際、ルノワ−ルの作品での布は極めて硬質で、布独特の柔らかさや「薄さ」がなく充実した質量を持ちます。ヴェ−ルという言葉の響きとは懸け離れた、引き絞られた太い縄のような存在感で、裸婦の身体と拮抗しているのです。もちろん僕の不勉強を考えれば(彫刻の知識は本当にない)、こういった構造の彫刻というのは捜せばけっこうあるのかもしれないけど、少なくともあんまりピンとこない今回の展示のルノワ−ルの絵画作品よりも、このささやかな彫刻の方が数段面白いのは確かなんじゃないかな、と思えました。


裸婦本体は、ルノワ−ルの絵画のような、女性の豊満さがタッチに分解して画面に充満してゆくようなものではなく明瞭な形態と確かなデッサンによるストイックな感じで、優美な動きを除けばあんまりルノワ−ルらしくない。いずれにせよ、こういった彫刻を作ってしまうルノワ−ルというひとは、僕が考えていたよりも遥かに優秀な美術家だったんだろうなと認識を新たにしました。


美術の面白いところというのはこういう瞬間で、好みとか問題意識とかが全然噛み合わないような作家であっても、高い技術と認識さえ持っているなら、すくなくともその高度さというのはなんらかの形で「ひっかかって」来ます。こういう所から逆行して、僕にしてみれば「好みの合わない」ルノワ−ルの絵画が新鮮に見えてくる可能性もあるわけで(もっとも同じ会場のルノワ−ルの絵画はやっぱりイマイチな感じがしたけど)、つくずく美術作品や、そこに冠せられた固有名詞というのは油断がならないなー、と思わせられたのです。


もう一つ油断がならないのは、この彫刻に「ひっかかった」自分自身の方で、多分今回の経験の伏線になったのは、ちょっと前に見た練馬区立美術館での岡崎乾二郎氏の立体作品の画像じゃないかと疑って?ます。あれ以来、妙に彫刻とか立体とかが気になっていて、そんな下地があったからこそ、あんまり興味のなかったルノワ−ルのブロンズ像が目に止まったんだと思うのです。こういう「出会い」が恐ろしいのは、ぼんやりと「僕も何か立体作ってみようかな」なんていう発想が出て来てしまう事で、これは僕の人生の中で初めての「芽生え」みたいなもので、ちょっとびっくり。自分に何が起こるか、なかなか分かるもんじゃないなと思いました。


ちとこの立体微熱、どっかでなんかしら形にしてみたいです。