世田谷美術館で開催中の写真展「ウナセラ・ディ・トーキョー」で見る事ができる高梨豊氏の作品のうち、5点の写真は際立っています。会場を埋める膨大な「トーキョー」のノスタルジックな写真群の中で、高梨氏の5点の作品だけが現実と拮抗していると思えるからです。


それぞれ「青山」「六本木」「麻布」「番町」「根津」と地名だけがクレジットされたそれらの写真が特異なのは、逆説的ですがそれがまったく味もそっけもない写真であるからに他なりません。まずこの5点は、ごく普通のカラーフィルムで撮影され、普通にプリントされています。また、そこに写っている建築物は、いずれも真新しいもので即物的な意味でひっかかりのない、平滑な表面(表情ではない)を見せています。


具体的に作品を見ていきましょう。全ての写真は1987年に撮影されています。「番町」は、奥にフレームからはみ出るように大きくガラス・ウォールの複数の面をもったビルがあります。水平に、斜めに、あるいは曲面を描きながら広がるそのガラスの壁面は周囲の風景を反射していて、都市で見る事ができる典型的なテナントビルと思われ、定期的にメンテナンスされているであろうそのガラスのテクスチャはつるつるで、いかなる物語性も感じさせません。右中景には極小の土地に建てられたと思える極端に幅がなく奥行きの長い、やはり典型的な都市型のビルがあり、さらにその手前の右端には建て売り住宅のような疑似石張りの建物があります。それらに囲まれるように一番手前に瓦葺きの平屋の比較的古い家があり、その駐車場には家庭用乗用車らしきものが止まっています。この家の門の脇にはタイヤが無造作に置かれています。また画面一番手前にはコンクリートブロックの塀がたち、右下隅にはバイクのメーターとバックミラーが見えます。


「根津」は、その地名から喚起される古い下町の風情とは対極的な、鋪装された道路とそれに面して建つ古くも新しくもない住宅群が写っています。画面下ほぼ中央には男性が両手で新生児を抱えて写っています。画面右の、一階がガレージになっていてそこに赤い乗用車が止まっている住宅や、奥に見える「米/渡辺」という広告の記された建物に挟まれて建つ木造の、看板によって「根津教会」と知れる建物は、丸窓と赤く鈍い尖塔を持っています。ですがこういった教会は、案外住宅地ならばよく目にするもので、ヨーロッパの地方にある歴史をもった小さな教会とは違い、微妙にその風景から浮き上がって見え、その浮き上がり方が逆にこの場所の平凡さを強めています。この「厚みのない」教会と新生児を結び付けて考えることも可能ですが、その結びつきは聖性よりは日常性を感じさせるものになっています。


「青山」は墓地の背景にステンレスの壁面を持つ建築が写っています。一部に三角形の屋根をもつ凡庸なポストモダニズムのビルで、窓は小さく少なく、手前の墓地に対して「背中」を見せています。墓地には白く新しい卒塔婆と古い墓石が写っています。


「麻布」はやはり奥にタイル張りのビルが建ち、その手前にある住宅の前の歩道のようなところに、斜めに乗り上げたロールス・ロイスが止まっています。右端に狸坂と書かれた標識があります。


「六本木」では赤いタイルで覆われたハ−ゲン・ダッツの店舗の前のベンチでアイスクリームを食べる白人の初老の男女が写っています。中央やや左、中景に小さな鳥居があり、そのわきにはやはり外国人観光客らしい数名が写っています。


これら5点の写真は、前述の通りはっきりと「手触りのない」風景を撮っています。この、いわば誰にでも撮れそうなカットの意義は、「ウナセラ・ディ・トーキョー」の会場全体を回ってみると、最初に言ったとおり、いわばあぶり出しのように浮上してきます。1930年代の銀座の風景、江藤淳氏が「小春日和」と呼んだ戦前の日本の東京の「豊かさ」と、米軍による爆撃によって壊された東京の風景を捉え、既に逝去した師岡宏司・濱谷浩両氏は別格としても、二人と同時代に生まれながら存命中の桑原甲子雄氏、また高梨氏よりも5年遅れて生まれた荒木経惟氏、さらに6年遅れて生まれた平嶋彰彦氏、最も若い宮本隆司氏らの、この展覧会に出されたほとんどの写真には、なにかしらの「手触り」があります。そういってよければ「ドラマ」があります。高梨氏の写真がそういった「ドラマ」から完全に切断されているわけではないにしても、いやそれ故に、高梨氏が上記のような写真を撮り、東京という都市の歴史に刻まれた「手触り」に焦点をあてたこの「ウナセラ・ディ・トーキョー」展に「紛れ込ませた」ことは重要に思えます。


「ウナセラ・ディ・トーキョー」のカタログに転載された文章で、高梨氏は次のように言っています。

六六年に発表した最初の<東京人>は一年で撮影しましたが、そのパート2である『東京人1978-1983』は六年かかりました。それはぼくが怠慢だったというだけではなく、六〇年代とは大きく変わってしまった八〇年前後の東京との関係が大きいと思います。

八〇年代、東京の街は大きく変わった。「界隈」はおろか、地上げなどで、町内までもズタズタになった。

高梨氏の5点の「手触りのない写真」は、そこに、手触りというものを奪ったある力、米軍による爆撃という目に見えた暴力とは違った種類の暴力を捉えています。それはいわば、目に見えない暴力、目に見える「手触り」を、いつの間にかぬぐい去りツルツルにしていった経済という暴力の、痕跡を残さない痕跡を写していると言えます。


つるつるの建物、あるいはカラー写真ということなら、桑原甲子雄氏も荒木経惟氏も撮っています。しかし、例えば荒木氏の撮ったカラー写真は、住宅/街の裏の小道や空き地、そこにある猥雑さや草花など、いわば「残された手触り」を追っています。そして、新宿の超高層ビルや商業施設の「つるつる」の建物を撮る時、荒木氏は(なぜか)白黒写真で撮るのです。モノクロ・プリントの意味=物語性は、既に40代前半くらいまでの世代が生まれた時からカラー写真に囲まれて育ち、デジタルカメラが普及した現在でははっきりと高まっています。白黒写真はフィルム現像からプリントまでが、実際の作品がどうであるかは別にして「作家の手によるオリジナルプリント」であるというイメージを表象しており、ある種の特権性とノスタルジーを喚起することは言うまでもありません。この会場にない荒木氏の膨大な作品群の中には、探せばカラーによる「つるつるの建物」を捉えた作品があるのかもしれませんが、妻・陽子氏の死を連続的に撮影し写真集として公開した荒木氏が、濃厚な物語性/虚構性を持った写真家であることは篠山紀信氏の指摘を待つまでもないでしょう。


師岡氏・濱谷氏と同世代ながら今だ「生存」している桑原甲子雄氏の作品は瞠目すべきですが、しかしやはり桑原氏はカラープリントで「ズタズタになった筈の界隈」を追うのです。出品点数としては一番多かったのではないかと思える桑原氏の写真に1点だけ、太陽光を眩しく反射する高層ビルのカラーのカットがあったのは特筆すべきですが、もちろんこの写真は、ビルとドラマティックなコントラストを描く手前の影の中で苦しげに歩いている老婆に主題があるのです。平嶋彰彦氏は、やはりカタログに転載された文章に、次のように記しています。

たとえば繁華街のアールデコの近代建築よりも、一筋か二筋裏側にひっそりとした長屋の方が、ずっと気にかかるし、山の手にある門構えの大きな家が並んだ所よりも、下町の密集した住宅街にいった時の方がずっと撮影時間が長くなってしまうようになります。

「長屋」や「下町」、「ガード下」といったものをモノクロで撮る平嶋彰彦氏は、年長の高梨氏よりも遥かに「手触り」にこだわっています。廃墟を探してはやはりそれをモノクロでとる宮本隆司氏は、最も年少であるが故なのでしょうが、ファンタジックで象徴的な像だけを撮っています。


戦前、あるいは戦後のある時期までの東京の像の手触りを生み出していた「風景の豊かさ」は、実は経済的な貧しさ、階級の格差によるものです。きらびやかな戦前の銀座の風景を撮った師岡氏や濱谷氏、桑原氏の写真には、同時に豊かな人の子守りをすることで収入を得る女性や道ばたで花を売る少年の姿があります。平嶋氏の求める「長屋」も「下町」も貧しさ故にあった風景です。同じ銀座の像を、貧しい人は羨望の目で、豊かな人は階級的自信を持った目で見たでしょう。「格差」を「量」に置き換えるなら、日本中が(例外はあるにしても)ある豊かさを共有し、総中流となってバブルに狂奔した「平準化済みの1980年代のニッポン」よりも、それ以前の、階級社会であった日本の方が「豊か」であったと言えるのです。浮浪者などの存在を勘案しても、人口の多くが餓えの恐怖を持たなくなり、逆に「貧しい風景」に取り囲まれるようになった東京で、戦前・戦後のような「豊かな風景」を得ようとすれば、そこに「手触り」を奪った暴力以上の暴力を期待しなければなりません。ノスタルジーは、そこに潜む危険性を隠蔽します。「貧しい風景」を捉えてしまう高梨氏とそれ以外の「豊かな風景」を追う作家には、その貧しさ/豊かさを転倒させる社会的文脈があります。


世田谷美術館の収蔵作品展である「ウナセラ・ディ・トーキョー」では選択の枠外となる若手写真家には、高梨氏よりも遥かに徹底して「手触りのなさ」を追求している作家がいます。マンションやオフィスビルなどの壁面を画面いっぱいに平面的に撮り、それ以外のものを一切排除してミニマリズム絵画のようなモノクロ写真を発表している下薗城二氏や、表情の欠けた場所で人工的に「手入れ」された女性の足を撮り、印画紙にプリントせず家庭用パソコン・プリンターでカラー出力する河原隼平氏などです。彼等は年齢的にも「つるつる」になったー高梨氏の言葉を借りればズタズタになった後の社会で生まれ育っており、そのような作品を撮ることは、いわば彼等の条件から言って必然といえます。もちろん、先行する写真および写真家という既成概念に捕われず、自らの条件を明確に把握しうるのは彼等が鋭敏な知性を持っているからに違いないのですが、とにもかくにも彼等が自らの条件の中で写真というメディアを駆使していることはたしかだと言えるでしょう。


1966年に撮影した東京の像で初の写真集を刊行した高梨氏は、しかしその後、自らの条件が「ズタズタ」になる経験を持っています。この経験は当時の東京を生きた人間にとって等しく訪れた事態で、なんら高梨氏に特権性はありません。高梨氏が異質なのは、そのような「ズタズタ」によって、2冊目の写真集を出すまでに沈黙をせざるを得なかったという感受性故なのです。そしてその沈黙の後、自らを規定する条件が破壊された後の東京で、なお自分と東京の交わる場所を模索しながらシャッターを切り続けた、その倫理性が、消えてゆく過去の掘り返しや虚構性の仮構とは一線を画した作品を生み出したと言えます。


高梨氏の「青山」「六本木」「麻布」「番町」「根津」は、過去のものになった自分の条件をなつかしむような物でもなければ、のっぺらぼうしか知らないという、ある種の開き直りから生まれる「新しさ」でもありません。ガラスのビルと平屋の古い住居、あるいは根津という「風情がある」筈の土地に見てしまった「風情のなさ」の中に、それでも過去と同様に生まれてくる命という、両極的なものに引き裂かれる視線だけがあるのです。こういった差異の感覚こそが、時代や文脈を超えた普遍性を生み出しえるのではないかと思えました。


●ウナセラ・ディ・トーキョー/残像の東京物語 1935〜1992