ジョルジュ・ディディ=ユベルマン「ヴィーナスを開く」

ブクログ廃棄を宣言したエントリの次ぎが本ネタというのも変だけど、読んでみましたよユベルマン。なにやら気鋭の美術史家だそうです。先行してちょっと読んでいたパノフスキーに対するアンチ・ポジションをとってる人だということで興味を持ちました。


中身は2/3くらいはボッティチェルリのヴィーナス像の分析。歴史的文脈をひもといて更にフロイトの夢判断なんかを使って解析し、「硬く閉じた」ボッティチェルリのヴィーナスをバタイユやサドに向かって「開く」という展開。終盤はスジーニによる解剖人形の文字どおり「開かれた」裸体像を使って身体の上の性=生/死=暴力を検討していく。


手に取った時にはビミョーな予感。なんというか、芸術の裏に秘められた性と暴力を精神分析で暴く!とかいうノリは、少々わかりやすすぎるインパクトではあるまいか。


でもボッティチェルリのナスタージョ物語板絵連作の「謎解き」は相応に面白いです。丁寧に絵を読んでいって、この奇妙な「新婚夫婦への贈り物」である作品を様々な外部と接続し(聖ゲオルギウスの竜退治とか)、ルネサンス以降のスタティックな人文主義を撃っていく。「しかしながら美術史の対象とは、記述対象となる時代の一貫性では断じてなく、まさにその“力性”なのであって、そこでは、あらゆる方向への運動、張力、決定要因が織りなすリゾーム、作動するアナクロニズム、和らげようのない矛盾といったものが前提となっている。ニ−チェはそれを“生成と生の可塑性”と呼んだ」というメッセージはそれなりに伝わるし、手つきが鮮やかなのでサクサク読めました。


こういうのが「面白い」本になる理由はわかる。専門性の高い分野にいろんな他の要素をクロスさせていって「横断」してみせ、今までとはちょっと違うユニークな視点を開示するというのは、とりあえず「面白い」となりがちなんですね。しかもそのやり方がリズミカルでスピーディーならなお一層「面白い」。


でも、そういった「面白さのパターン」というのが、ある程度飲み込めてしまうと、そこには「退屈な面白さ」というものが出て来てしまう。内臓全開のスジーニの人体模型の口絵のショッキングさとかも何かしらデジャ・ビュを覚えます。なんだかんだで今だに人文学的理性が強いのであろうフランスでのこの本の立ち位置と、死も生もエロもグロも「成るように成る」日本でのそれとは違うんだろうな、というのは想像がつくけど、例えばこの本が依拠してるバイタイユやサドは単にいろんなものを「横断」「応用」して見せたのではなく、ある反転した場所で何ごとかを徹底して構築してみせたからこそ、結果的に硬直した様々な思考を引き裂いてゆく強度を持てたのであって、器用に「ユニーク」を演じている本書とは根っこが違うんじゃないかと思うのですよ。


否定的な書き方をしてしまいましたが、少なくとも「つまらない」よりは「面白い」方が相対的に良い(それがあるパターンでも)、というのはあるだろうから、興味を持った人は肩ひじはらずに、気楽な気分で読んでみてはどうですか*1


あと、違う意味で興味深かったのが訳文。1976年生まれの森元庸介氏が訳したものを、先生らしい宮下志朗氏が大幅にチェックして出された本とのことですが、そこかしこに「1976年生まれ」なコトバが見えかくれしてます。特徴的なのは文と文を繋ぐ所での「〜だけど、」みたいな少し舌っ足らずな感じがする表現。これは欠点でもなんでもなくて、この本の訳文全体にある一種の明るさ、明解さを形作っている感性が表面化したものだと思います。上記の「サクサク読める」という印象は、この若手研究者のセンスによるところも大きいんじゃないかと思いました。

*1:講演集をまとめたものらしく、この著者のド真ん中の仕事というよりは、パフォーマンス性の強い「入門編」みたいな性格の本のようです