ベルリンの至宝展もアンソールもマルチプル展も結局見に行かず、この週末に見たものと言えば映画「ミリオンダラー・ベイビー」でした。いやまいった。その展開のキツさに終映後もしばらく椅子からたてなかったです。まぁざっとした感想だけ。なるべくネタばれしないように書きますが、ヒントも欲しくない人は読まないほうがいいでしょう。なんとなく分かってしまうかもしれませんので。


人は誰でも、固有の条件に縛られていて、それはお金のあるなしだったり*1、年齢だったり、家族との関係だったり、個人的な歴史だったり、話してる言葉だったり、身体的特長だったり、人種だったり、民族だったり、宗教だったり、才能だったり*2します。そういう無数の条件に抗おうとする時、人は「努力」をするものだし、それは単なる頑張りだけではない、体系だったある「技術」を身に付けて行くことを通して効果を発揮してゆくのだけれども、しかしそういった「技術」や「努力」では超えられない条件を突破するのは意志でもなく、かと言って意志を無意味なものとしてしてしまう単純な「運命」なんていうものでもない、いわくいいがたい「力」で、この「ミリオンダラー・ベイビー」という映画は、何ごとかをオーバーしてゆく、その越境のプロセスとジャンプを描いた映画に思えました。


映画の前半で見ごたえがあったのはボクシングの試合のシーンではなく、むしろ比較的地味で時間的にも短い練習のシーンです。主人公の女性ボクサーがトレーナーから、徹底してテクニカルに「自分の身体のバランスを保ち、相手の身体のバランスを崩して倒す」にはどうしたらいいのかを教え込まれていく様子は、ボクサー・トレーナーの繊細な足の動きを捉えたショットにもっとも美しく現れていると思えました。ボクシングといえば迫力あるパンチ、腕と拳をイメージしていた僕にはとても新鮮でした(それゆえ、物語り後半の、ボクサーの足に関するシークエンスが重要、というか「決定的」に見えてきます)。また、トレ−ナ−の止血のみせかたも鮮やかで、なによりもこのトレ−ナ−が技術者であることが明示されています。ボクシングの試合自体はほとんどマンガ的に描かれ、あっと言う間に終わってしまうのと比較して、「プロセス」が丁寧に描かれていることは注目すべきです。


しかし、中盤でそれらの具体的な技術や努力に基づいた成功をもってしても動かない「条件」、あるいは限界といったものが浮かび上がった時、努力や意志があったからこそ出現してしまった事故が、ボクサーやトレーナーを自らの条件そのもの、限界そのものと直に対峙してしまう状況に立ち至らせます。そしてその状況は、彼等が意志に基づいて「生きて」きたという歴史故の、どうすることもできない行き止まりなわけです。ことに先程書いた「足に関するシークエンス」で、臭いを喚起させるシーンは、同時に示される足の色と相まって異様に生々しく立ち上がってきます。続いて示される、その「足の行方」を観客に示すショットは、押さえられた提示のされ方によってよりショッキングです。


大事なポイントだと思うのでくり返しますが、彼等の立ち至った場所が「行き止まり」になっているのは、彼等固有の関係性と時間の積み重ねによるもので、けして一般化できるものではありません。そこを無視しては、その後彼等が行った決断の意味を見誤ることになるでしょう。


ボクサーとトレーナーは、彼等の意志と努力と技術を積み重ねて来た中で起きた事故によって、彼等ではどうにもならない、丸裸の状態で彼等の「条件」と向かいあってしまう。その時彼等が選択したのは、全てをオーバーしていく、超えていくことで、その為に、彼等はある決断をし、実行します。単純に言って、トレーナーとボクサーという関係ではあの決断はなされえないし、その決断によって、彼等は違う関係性を結ぶことになるわけです。いかなる努力によっても二人が突破できなかったもの、その条件/限界を超えていく、そのための決断なのだと思えました。


ですから、この映画を社会問題や政治的な問題を主題とした映画と見るのは、ちょっと違うと思えます(それらが重要な要素であるのは当然ですが)。むしろ徹底して社会化/一般化できない、個々の人間の固有な限界点において、人は何をしうるのか。あるいは、限界点と対峙してしまう個人とは何なのかが露出している映画なのです。そして、そのような限界は、人によって、ありとあらゆる「無茶苦茶さ」さで現れうるものなのだ、ということが示されている作品だと思えます。そしてその「無茶苦茶さ」の極端な個別性故に、この映画は(逆説的ながら)普遍性を帯びているのではないでしょうか。


また、ボクサーとトレーナーの「意志」や「超えて行く」姿勢を立体的にしているのが、ボクサーを理解しない(できない)家族やジムの「輝きなき人(達)」です。この映画は、輝きのない人々に対して、ある種の視線をきちんと送っています。彼らを無闇におとしめるのでも顕揚するのでもなく、彼等が彼等なりの在り方で「存在している」ことを「正確」に捉えています。この正確さは、台詞や構成によるものではなくショットの正確さだと思えます。トレーラーハウスで暮らすボクサ−の家族を撮ったシーンの白けた色彩と奥行きの無さ、少々「足りない」ジムの練習生の奇妙な動きの浮き上がりっぷりを見せる引いたショット、リング間近で興奮している富裕な人々、ジムを現実的に管理している、主人公を最初に見い出す人物の、トイレの掃除や電気を1つづつ消していく手付きなどに、その正確さが出ているように思えます。


注意したいのが「事故」のきっかっけとなる試合相手の「敵」のボクサーで、彼女の設定が「娼婦あがりの汚い手を使う選手」となっているところです。娼婦=汚い、という構図には鼻白んでしまいますが、この設定に惑わされることなく映像を見ると、「敵のボクサー」が極めて「美しく」映っていることに気付きます。その肉体美は、主人公の女性ボクサーを遥かに凌駕しています。その肉体によって、彼女もまた「彼女の条件」に彼女なりの方法で抗っていることが映像上で示されることになります*3。また、「事故」のシーンで見せる「敵のボクサー」の表情は、けして彼女が単純な「敵」ではない、ボクサーとして、双方が暗黙に背負っているリスクを自ら現前させてしまったことに衝撃を受ける人間であることを示しています。


全編にわたって光りと影の扱いが意図的で、暗い中に浮かび上がる人物、明滅する明かりに浮んでは消える表情、激しいコントラストのあるボクシングの世界と、のっぺらぼうな明るさの「日常」の対比などが、シンプルに見えてきます。最終場面でトレーナーが病院を出てゆくシーンは、まさに闇から脱出してゆくように見え、印象的です。色彩や音響を考えても、やはり劇場で見るべき作品と思えます。


好きな映画か、と聞かれれば、正直ノーなんですが(だいたい僕は「シリアスさ」を軸に持ってくる映画というのが嫌いです)が、ぼくは多分もう一回見に生きます。

*1:もちろん「豊かである」ことが足枷になることは、「貧しい」ことが足枷となることと同じようにあるわけです

*2:これもお金と同じで、才能を持つことが人をある条件に縛り付けるという事態は、才能がない場合と同じようにある

*3:彼女は、リング上で「汚い」キャラクターを演じる必要性があったのではないかと想像されます