父は既に死んでいた。痩せこけて、テレビで見るアフリカの戦災児を思いださせた。肌は真っ白だった。首は真横を向き、開いた目元には粘度の高い水分が張っているようだった。それは涙というよりは、スーパーで見る魚の目のような、ゼラチン質のものに見えた。口は半開きだった。布団の下の身体の腰の部分は膨らんでいるが、これはおむつのためだ。足は曲がって開いていた。これもおむつ同様見なれたものの筈だが、生気のない顔の印象が強いせいか、全体に「死体」としかいいようのないものだった。朝7時10分頃、僕が妻と二人で住んでいるアパートの電話が鳴った。時間的に、介護型病院に入院している父の事と直感的に思った。電話先で母が「ちょっと危ない」と言った。僕はすぐに病院に向かうと言って電話を切った。起きてきた妻に電話の内容を伝えると、妻も支度を始めた。彼女には仕事がある。僕は自分の仕事は今日いかなくても大丈夫だと思っていたが、彼女は大丈夫なのだろうか。父の「危険度」はどのくらいなのか。確認しようとして改めて母のいる実家に電話をかけたが繋がらない。姉夫婦に電話しているのだろう。妻は、自分の仕事は大丈夫だし、車を自分が運転していくという。僕は免許がない。そんな事を話しているうちに、母に電話が繋がった「一刻を争うの?」と聞くとそうでもない、と言う。病院から電話があったので、とりあえず自分も車(タクシー)を呼んだのだという。電話を切って、支度を進める妻にその旨伝えたが、やはり行くという。僕は急ぐことはないと聞いて、逆に病院で長丁場になる心配をした。リュックに本を入れて、妻と家を出た。朝の渋滞を避けていつも家から病院へ行く道とは違うルートを使っても、病院に着くのにはかなり時間がかかった。時計を見ると8時17分だった。6人部屋の父の周囲についたてが立てられていた。母がいた。父の傍らに立つと、先に書いたような状態の父が横たわっていて、ショックを受けた。毎週末ごとに父を見舞っていたが、自分の個展準備もあり、ここ2週間は来ていなかった。その、最後に見た時の父と比べると、恐ろしく痩せていた。あまり危機感なく来た僕は母に「どうなの」と聞いた。母は「もうだめ」と言った。心臓の波形が若干残っているだけ、と母が言ったところに、女医さんが来て「8時14分でした」と宣告して頭を下げた。3分間に合わなかった。母は医者に「ありがとうございました」と頭を下げた。僕は改めて父を見た。自分の鼓動が若干高まっているのが感じられた。母は父の枕元に屈んでその頭を撫で「頑張ったね」と言った。僕は立っているだけだった。どのくらい父を見ていたか、車を運転してきた妻が「ごめんなさい」と言った声がした。3分間に合わなかった、と僕は声に出して言っていたのだろう。気にしなくていいよと言ったが、これは本心だった。悲しいも悔しいもなかった。死体の父で頭がいっぱいで、それだけだった。母はナース室と病室を行き来していた。もう病室の片づけをしていた。手伝おうとしたが、既に父の荷物置き場はカラだった。その分、母が大荷物を抱えていた。ロッカーの一番下にだけ、母が持ち込んだ使い捨ておむつが少し残っていた。あれは置いておけば病院が使う、と母が言った。看護婦さんに促され、待ち合い室で姉の到着と父の搬出を待つことになった。母は荷物から捨てるものをトイレの隣の大きなゴミ箱に入れていた。父がまだ車椅子に乗れていたころ、ずり落ちる父の身体を車椅子にくくりつけるための、母手製の布バンドも捨てていた。待ち合い室で、母は次々と僕に指示を出した。まず加入していた葬儀業者のパンフレットを見せた。27万円の積立てコースに入っていて、その積立は終了しているとのことだった。葬儀場はできれば業者のものではなく、市営霊園を使いたいと言った。姉に連絡を取ることと、役所に電話して市営霊園を押さえるにはどうすればいいか聞け、と言った。9時になったかならないかだったと思うのだが、もう役所には連絡がとれると母が言うので、階段の踊り場に出て、まず姉の携帯に電話をした。番号は妻が知っていたが、出なかった。車を運転中なのだろうと僕は言ったが、母は姉は電車で来るという。次に番号案内に電話して役所の連絡先を聞き、妻に口頭で伝えて控えてもらった。役所に電話して「父が亡くなった。手続きと市営霊園の押さえ方を知りたい」と言うと、簡単なお悔やみの後、死亡届けを医師にもらい、所定の係に提出すること、霊園は火葬場を押さえてからでないと予約できないこと、業者に加入しているなら、こういった手続き一切は任せたほうがいいということを教えてくれたので、その旨母に伝えた。母はその死亡届け(死亡診断書)の事を看護婦さんに聞いてきたようだった。姉が来ないうちに、父の搬出準備が終わった。改めて病室に入ると、年輩の看護婦さんが、父の様相を整えてくれていた。目も口も閉じられ、簡単な化粧を施してくれた。母の肩を抱いて、小声で励ましてくれているようだった。母は何度かうなずいていた。担架に乗せられた父は、霊安室へ移されることになった。病室には、やはり衰えた他の患者さん達がいる。長く通った病室だから、顔を覚えている。毛布をかけられた父が、エレベータ前まで運ばれた。担架の上に乗っている父が、生きていない、死んだ父なのだということが、改めて実感された。母はここで姉を待つと言う。霊安室には靴を履いていくらしいのだが、場所はわかるか、と言われて戸惑う。とりあえず玄関にクツをとりにいくことにした。妻が先に玄関に行ってクツを持ってくれたが、どうも霊安室の場所がわからない。改めて父の病室のあったフロアに戻ったが、もう父もいないし母の姿もない。改めて看護婦さんに場所を聞いて、言われたまま歩くと、病棟の裏に物置きのような小さな小屋があって、そこが霊安室だった。狭い空間に祭壇があって、もう父が安置されていた。姉から僕の携帯に電話がかかってきた。もよりの駅についたという。多分僕はここで姉に「だめだった。間に合わなかった」と言ったと思う。母が来たので姉と連絡がついた事を伝える。霊安室の粗末さを思わず口に出して言うと「長くいるところじゃないから」と言う。父は一度家に連れていきたい、その旨葬儀業者に伝えてくれ、相談にいったときの担当はKさんだと言うので、業者に電話する。女性が出て、Kさんがいないので、代わりのものに搬送車で向かわせる、また一度実家によることは了解したと言った。僕のほうからは、葬儀場は市営霊園を希望していることを伝えて了承してもらった。姉が来た。表通りまで様子を見に行っていた妻と一緒に歩いてきた。霊安室を教えて、また姿が見えなくなった母を目で探す。母は直ぐどこかへ姿を消すので困る。死亡診断書の他に病院の費用の精算などもあるらしい。もうこの病院に来る用事はなくなったのだから、父の搬出までに用事を終えたいらしい。見つからないので霊安室に戻ると、入口に立つ妻の向こうに、父の傍らに椅子をおいて座っている姉が見えた、泣いているのがわかった。今日初めて見た涙だった。室内に入ると、姉は何か言ったと思うが思い出せない。僕は簡単に経過とこれからの予定を説明したと思う。姉は携帯でメールを打ち始めた。来るように言った3人の姉の子供達に、少し待つように伝えているのだという。「老化防止で、左手でメールしてるんだけど、上手く打てない」と言って、涙顔で笑った。今日初めて見た笑顔だった。義兄に、仕事が終わり次第来てくれと伝えてくれというので、僕が義兄の職場に電話した。義兄は落ち着いた声で応対してくれた。母が戻ってきた。やはり書類のことで病院の受付けに行っていたらしい。妻が全員に椅子を勧めてくれたが僕は断わった。狭い霊安室に姉と妻と母が座り、僕は立っていた。父の胸元に置かれた小刀が気になって、姉と「なんだろうね」と言い合っていたら、母が何か説明してくれた。その内容は思い出せない。葬儀業者はなかなかこない。母は入口近くで、サッシの扉を開けたり閉めたりを繰り返す。その音が気になったのだが、僕は何も言わなかった。冷静で、てきぱきと必要なことをこなしているように見えた母が、実は相応に動揺していて落ち着きをなくしていることに、僕はそこでようやく気付いた(2004年11月11日)。