野沢二郎氏の絵画

アートスペース羅針盤の「二次元と三次元の出会い」展(http://rashin.drawing.jp/ex/2005/0815/index.html)で見てきた野沢二郎氏の絵画は、少しだけ先の牛久での二人展の時と違って見えた。色調は牛久の時と近い、アンバーっぽい褐色とローズっぽいピンク、そして白が使われていて、絵の具の積み重なりが茫洋とした空間と光を感じさせる作品だったのだけど、まず植物油の添加が増えて表面のツヤが増している。130号の作品は所々マットな部分もあるのだけれど、100号の方はほぼ全面にツヤがあり、絵の具がフレッシュ、というか油性の描画材の流動性が強く喚起される。


絵の具が乾いていない、という事ではない。「そのように見える」ように描かれた絵なのだと思う。植物油が加えられたことでゆるく溶かれた絵の具が下層の絵の具と混じりあったり、作家が画面に触れる時の抵抗が一段軽くなった痕跡がそのまま画面に定着していて、その絵の具の物理的な粘度の低さが、絵の性質を決めている。今年2月のMixjamでの、かなり油が添加された作品が、より構築的になった、という印象だった。


固練りの絵の具で描く時と比べて、緩やかな絵の具を使う事は画面の混濁をおこしやすいし、単純に滑った絵になりやすいのだけれども、野沢二郎氏は意図して絵の具を「緩く」していることがわかる。乾燥がきちんとコントロールされてるから混濁は少ないし画面は十分堅牢だ。ローズの色調での画面全体の染まりはもっと固練りだった牛久での二人展でもあった事だから、油の添加とは関係のない、別の意図の結果だと思う。


絵の具が乾いていない「ように見える」、ということは、まるでその絵が今描かれたような、生成の瞬間が定着されたような絵だ、ということで、この絵の前に立つとゆらめく絵の具の振動に、自分の視覚だけでなく触覚が立ち上がっていくような感じを受ける。十分に慎重に組み上げられながらなおかつ「ゆらぎ」があるような絵というのは、例えば先の中村一美氏の新作でも感じられたことだけれども、中村氏が絵の具の流動性ストロークの伸びやかさと絵の具の抵抗の複雑な「運動」において画面に定着しているのに対して、野沢氏はあくまで絵の具の積み重なり(あるいは積み重ならないこと)を繰り返すことで画面に質を保とうとしている。


この積み重なりが、今までの野沢氏の作品にくらべるとやや薄いのだけれども、絵の具の物理的な厚みの強さで画面を支えるのではなく、「ゆらめきを丁寧に定着させる」ことで絵を成り立たせようとしているように思えた。