雑記

めちゃくちゃ雑記。
フジテレビのドラマ「スローダンス」をぼんやり見ていた。とりたててどうこう言うドラマじゃない。なんだか古い感じのするラブコメで、はっきり30代の人に向けて(媚びて)作られてる(そうでないと、主演の深津絵里の台詞まわしの古臭さを笑う所が生きない)。ちょっと気になったのは脇役の広末涼子の演技で、この女優?のつかみ所のなさが、本木雅弘と似ているな、と感じたところだ。


もともと広末演じる実乃は「つかみ所がない」役として設定されている。ならばこのドラマ中の広末のつかみ所のなさは「役づくり」によるものかと言えばそうではない。脚本に描かれている30代女性の痛さを一生懸命演じる深津と対比すればわかるが、広末はほとんど何も演じていない。この「演じない」というのは役者にとって相応に難しいことだから、そこにこそ広末の女優としての仕事があるわけだが、「この女優に“演技”をさせなければ、つかみ所のないキャラクターが成り立つ」と考えたキャスティングというものが事前にあるわけで、やはりこの画面内にある広末の「変な感じ」は、広末涼子という人の資質と濃厚に結びついていると思う。


スローダンス」の広末涼子には表情がない。正確には、記号としての笑顔や不機嫌さが薄く配されるだけで、その奥に表情のない表情、というものがある。立ち居振る舞いはほとんど引っ掛かりのない、のっぺらぼうなもので、「イタい女」をボルテージを上げてアクションする深津が、オーバーに動き顔芸で状況を切り抜けていくのと対比して、そののっぺらぼうさは広末の顔(正確には首から上の頭部)の造形的特質と相乗効果を起こし独特の違和感を放っている。


このドラマは徹底して「30代の共感」を呼ぶことを目的に作られているから、主人公の深津から見て、どう接していいかわからない一世代下の同性、という役所は効果的に作られた、とも言えるが、おそらく世代に無関係に「どう接していいかわからない」人物、ほとんど宇宙人的存在になってしまっているのが広末涼子なのではないだろうか。


広末の「押さえられた」演技で最も特徴的なのは視線で、ない表情の中にある視線の動き、自分の周囲の環境を把握しそれに対する「自然な」リアクションを最低限に発するためのレーダーのような視線の動きが、広末演じるキャラクターの全てだ。これは例えば「内面がない若者」とかいう言葉とは違う質のもので、そういう「内面のない芝居」をする人ならいくらでもいると思うが、爬虫類的視線を放つ異質さは、広末涼子独自のものだと思う。


この変な感じにやや似ているものを持っているのが本木雅弘で、本木の違和感は実は芝居をしているときでなく、ごく稀に出るトーク番組で最大限に発揮されると思うが、大失敗作映画「遊びの時間は終わらない」が分けのわからない映画になっているのは、脚本の破綻によるものでは実は無く、本木雅弘という役者が「分けのわからない」存在であったことに原因があると思う。本木の「分けのわからなさ」は、心を開かないとか内面を隠している、というようなものではなく、恐らく本人ですら把握していない種類のもので、この人の「分けのわからなさ」を上手く使えたドラマや映画というものを僕は知らない。


広末涼子のつかみ所のなさは、恐らく少女アイドルとしては高い市場性を持ち得るものだったのだろう。ぶっちゃけ幻想をおしつけやすい空白として「つかみ所のなさ」が機能していたのかもしれないが、いまやこの広末涼子のつかみ所のなさは、幻想を拒むくらい強力になってきていると思う。誤解を避けるために言いたいのだけど、この事は広末涼子のポジティブな才能なのだ。言ってみれば広末涼子を素材に映画なりドラマなりを作ることはかなりの能力を必要とするだろうし、そしてそれを観ることにも能力が試される。今の、たとえばモーニング娘みたいな、「こう消費しろ」という命令が内包され、それに従ってブロイラーみたいに享受するしかないようなアイドルとは違う、ある創造性を要求してくるのが広末涼子なんじゃないかと思う。映画「20世紀ノスタルジア」や「秘密」が善し悪しはともかくある世界感を獲得しているのだろうことはそのことの成果だろうし、「wasabi」とかが悲惨な事になっているのも同様の理由によるだろう。


ちなみに「スローダンス」での深津絵里の芝居の嘘臭さはあるリアリティを持っていると感じる。社会の中で、とりあえず表面的にでも社交性を発揮しなければならない「労働する女性」のムリムリ感が上手く提示されている。こういう描写は、実際に労働を経験していれば身に染みるはずで、他人に対して「敵意はないですよ、上手くやっていきましょうよ」というメッセージを常に発して、その場をやりすごしていく(いかざるをえない)大変さというものは「自然」な演技では不自然になる。だっさい恰好などもきちんとダサく描かれているし、その丁寧なカマトトぶり「演技」(つまり世の多くの人が大なり小なり演技しているのだ、という演技になっている)が鼻につくところも、まぁ成功しているのではないか。それにしても化粧品のCMをしているような女優が顔のシミ(そばかす、と言ってもいいのかあの年齢設定で)全開でアップになるのはいかがなものかと思うが、そこまで意図的なのだとしたら立派なもののような気がする。「1999年の夏休み」というソフトポルノ(悪い意味ではなく、よく出来た映画だった)で方向性不明な力の入り方をしていた頃が懐かしい。