鋼鉄天使くるみpureはケッサクだ。カタカナで書いたのには意味がある。まず僕が12話で構成された映像作品の5話までしか見ていないため、最終的な価値判断をする資格に欠けているということ。そして次が大事な点だが、この作品が「傑作」と安心して結論づけるための価値の共同体から外れて存在していることがある。


鋼鉄天使くるみpureは「鋼鉄天使くるみ」という漫画から派生した実写ドラマで、一部のUHF局で2002年に放映されている。原作はいわゆる「メイド萌え」の先駆けをなすオタク漫画らしく、鋼鉄天使くるみpureも、設定はドラマ独自に構成されているが表面上はそういった要素を持っている。簡単にあらすじを書くと、ひきこもっているオタク少年の部屋に「おじさん」から看護用少女ロボット・くるみが宅配されてくるが、これがモニター用の試作機で、やや調子はずれな「ひきこもりの看護(治療)」をドタバタと繰り広げる。ステロタイプな設定だが、放映年を考えれば原作にない「ひきこもり」をあつかっていることは相応に先験的と思える。また、ひきこもりに無知な僕がこのような事を書くのは危険かもしれないが、少年が部屋から「出ない」のではなく「出られない」のだという描写を行っているのは興味深い。


だが僕がこの作品に注目したのはそういった点ではない。この作品は趣味によって作られているように見えながら、その「趣味」の最終的な引き受け手がいない内容になっている。具体的な言い方をすれば、この映像はオタク的な「趣味」からことごとく逸脱し、誰に向けて作られているのかがまったく見えない、あるいは最初から「誰にも向けて作られない」ことで、結果的にあらゆる趣味を横断するような、いわくいいがたいテンションを持ってしまっている。


まず映像に関しては、やや奇異に思えるほど暗い。昨今のビデオ撮影のテレビドラマを考えると、この暗さは明らかに意図的だ。この暗さは、特撮というジャンルを考えれば初期から中期の仮面ライダーシリーズの怪人基地などに近いテイストになっている。もうひとつ、このドラマはほぼ少年の部屋だけで、少数の登場人物によって展開するのだが、これが小劇場での演劇のような空間を作り上げている。公式ホームページでは「限定された空間と登場人物で繰り広げられるシチュエーションコメディ」と書かれているが、シチュエーションコメディ(シットコム)というのは、主に昔のアメリカで作られたテレビドラマの形式を指してのことで、スタジオ内にセットを組んで観客を入れ、そこで喜劇が行われ観客の笑い声などと共に撮影されたドラマの事だ。「奥様は魔女」が典型的な例だし、近年でも「ダーマ&グレック」などの佳作が作られている。日本では三谷幸喜脚本の「HR」がある*1。シチュエーションコメディが演劇を元に作られたテレビドラマの形式であることは確かだが、観客を入れていない「鋼鉄天使くるみpure」は照明も含めむしろダイレクトに演劇、しかも80年代後半から90年代初頭の小劇場演劇に近接している。


日常の空間(室内)に異物が入り込み、そこでドタバタが行われるというのは様々な演劇、例えば80年代に劇団ショーマなどが行っていた。今でもZipang stageが粘り強く(しつこく?)やっている。当時の小劇場は強くテレビを意識していて、限定された条件でいかにテレビ的な要素を換骨奪胎し、乗り越えるかが大きな主題としてあった。「鋼鉄天使くるみpure」のスタッフがこのような要素をどこまで意識しているかの事実確認はとれないが、的はそんなに外していないと感じる根拠は少年の部屋の「広さ」が、小劇場の舞台のスケール感に近い点にある。


鋼鉄天使くるみpure」のエンディングを見るとはっきりするが、このメイン舞台となる少年の部屋は、設定を考えると若干広い。業務用スチール棚があったり中央にドカンとベッドがあったりして、どう考えてもひきこもり少年に与えられる空間のリアリティはない。感覚としては新宿のシアターアリスよりも広いだろう。大塚ジェルスホールが僕の知るスケール感に近い。もちろん、具体的な板の固有名詞が問題なのではなく、間違い無く低予算で作られた「鋼鉄天使くるみpure」がこのような「広さ」を作っていることが問題なのだ。少ないとは言え4-5人は登場人物がいる場として物理的に要請された空間なのかもしれないが、作中、少年とくるみの台詞の掛け合いが歌になり、出し抜けに「ミュージカル」が展開するとき、この作品が演劇を意識していることは確信できる。


では演劇的「趣味」によってこの作品は支えられているのかと言えばそうではない。演劇が取り組んだ「TV演劇」を再度ひっくり返して「演劇TV」にしさらにそれを超えていこうとする、つまり単純に映像作品としての面白さが企てられている。「演劇的ムード」を完全に払拭していくのはそのスピードだ。1話15分の短い尺に、これでもかとギャグが突っ込まれ、やたらと多いカット割りで、軽快かつ密度が高いドラマになっている。このスピード感はクドカン脚本の「マンハッタン・ラブストーリー」の前半の良質な回に近いが、「マンハッタン〜」が膨大な登場人物のめまぐるしい交代でそのスピード感を得ていたことを考えると、遥かに少ない人数(僕が見た1-5回などは、2人-4人で作られている)でのこの速度は、時間の短さを勘案しても感心する。ましてや「鋼鉄天使くるみpure」は、やや広いとはいえ「1部屋」で作られているのだ。走ることや車の疾走は一切使えない。細かいカット割りのたび、レンズの切り換えや(広角が多用される)アングルの工夫が行われ画面が平板にならない。もちろん、このような手法は映像でしか行えないもので、それが「演劇臭」を拭う。


そして同時に、「鋼鉄天使くるみpure」には映像的「趣味」からも切り離されている。その点で比較するなら「池袋ウエストゲートパーク(以下IWGP)」や「ケイゾク」「TRICK」が思い起こされる。IWGP監督の堤幸彦はやはり意識的なレンズの使い分けと照明、カットの細かいつなぎで独特の「映像美」を生み出した。そこには明らかに映画的教養があり、映画的美意識がある。言ってみれば「映画趣味」があり、それが堤の作品を支えている。「鋼鉄天使くるみpure」には限られた条件を突破し、遊ぶための工夫とアイディアとパクリと破綻を含んだ試行があるが、「映画趣味」はない。決定的なのは女優の選択だ。IWGP加藤あい)/ケイゾク中谷美紀)/TRICK仲間由紀恵)と、ミもフタもない美人をキャスティングする堤に対して、「鋼鉄天使くるみpure」のヒロイン松居彩は、非常にビミョーな容姿をしている。完全なおかめと言い切れないところがまたポイントであって、おかめならおかめで見る側も「見方」が選べるのだが、ビミョーな顔でビミョーな体形をした松居彩は、画面にいかなる美意識、「映像的趣味」を発生させないし、むしろそれを壊す存在としてある。


堤幸彦の弱点は「趣味」にある。テレビドラマを撮っているときは、いかに映画「趣味」をつぎこんでも、テレビというフレームがその趣味を流産させ、その齟齬が単なるテレビドラマでも映画でもない、独自の世界観を立ち上げていくのだが、堤が実際に映画を撮ってしまった時、その貴重な齟齬が消え、映画「趣味」によって映画に溺れたフィルムを撮る。ケイゾク/映画がテレビ版の面白さを裏切ってしまったのはそのような理由によるし、TRICKの劇場版も失敗している。その趣味が最も露骨に現れるのが中谷や仲間といった「美人女優」の「美しさ」で、堤はこれら美人をテレビにおいてはブスに(こっけいに)扱うという賢明さを発揮するが、映画になってしまうとこのこっけいさが弱まって急激に単なる美人にしてしまう。ケイゾク/映画のBeautiful Dreamerというサブタイトルは何かを象徴している。


鋼鉄天使くるみpure」では、恐らく様々な映像的/特撮的ギミックが試されているが、ヒロイン松居彩が全ての美意識、映像「趣味」を脱臼させる。「ご主人さま〜」「きゅい〜ん」などのいわゆるマンガ/アニメ的「萌え」アクションを実写でやるという無茶が圧倒的な違和感として画面に横溢し、視聴者を徹底して居心地悪くする。簡単に言うと、引く。だが松居彩自身はまったくそのような違和感に頓着しない。自意識が消えているとしか思えない、謎なノリで突っ切っていく。暗い画面でビミョーな顔はよりビミョーに写り、どこまで狙っているのかわからないビミョーな太り方は、恐ろしく短いミニスカから無造作に露出する太ももを、サービスにならない絶望的な「どうしようもなさ」にしてしまい、まかり間違っても「美しさ」なんかには着地しない。その「どうしようもなさ」が視聴者を脱力させ、いつしかガードを解かれて弛緩一歩手前の、無防備な状態にさせられてしまう。少年役の上条誠がこれまた妙にそつのない、上手い演技をするのだが、この上条の上手さが松居彩の変な演技にテンポを与え、ただ画面がだらしなくなってしまうのを食い止めている。看護ロボットにふりまわされる少年の、ロボットをなんとかしようとする切実さと、役者としての上条本人が松居彩をなんとか支えようとする姿勢がリンクして、そこにリアリティが発生する。


では、「鋼鉄天使くるみpure」はオタク「趣味」の産物なのか。一度でも実作を見ればただちに分かると思うが、この映像で「萌える」ことは、至難のワザだろう。大きなリボンをつけた髪型、メイド衣装、マンガ的語彙、一方的に少年を看護/奉仕するロボット少女という設定、お風呂で背中までながしてくれるという「これでもか」とつぎこまれた萌え要素は、ヒロイン松居彩においてことごとく破綻させられる。二次元上の「萌え」記号を三次元化したことが問題なのではない。もしそうならコスプレやメイド喫茶などなりたたない。そして、そこが松居彩の素晴らしい所なのだ。その奇妙な違和感が、上述のようにいつの間にか観客を脱力させ心理的防御をはぎとっていく。なぜ松居彩にそれが可能なのかと言えば、松居本人が何も「守って」いないからだ。


一般に、不器用な役者ほど自意識を守るために技巧的になる。ことに台詞や言動が「はずかしい」ものならば、ガードを固めて-つまり技術的になった上で、その技術によって「はずかしい」ことを「こなす」ことになる。つまり演じている役がはずかしいのであって、「役者」そのものは守られる。そのような役者は、どんなに上手く、ボルテージをあげてオーバーアクションしても、観客の心理的ガードは外せない。人は自己を守りながら技術をしかけてくる物には防衛的になるからだ。松居彩にはそのような「守り」がない。当人に現場でどのような葛藤があったかなかったか分からないが、カメラの前ではまったくもって衒いがない。もちろん、松井が「器用」なわけでもない。ああも反省なく「どっ引きキャラ」を「生きる」ことができるのは稀な資質だろう。その資質は、ほとんど他の仕事で使い道がないのではないかと思えるほどだが、そのぶん「鋼鉄天使くるみpure」という作品内では強力に作用する。


仮にこの役が小倉優子とかの「技術系」で、かつ普通に美的なタレントがやっていたら悲惨なことになる。というか単なる「萌え」番組となる。松居彩を得ることで、「鋼鉄天使くるみpure」は一切の「オタク趣味」をなぎたおし、テレビと戦ってきた演劇を再度テレビに取り込みながら「演劇趣味」を振り払い、映像に様々な工夫をこらしながら「映像趣味」を粉砕した。だから、この作品には、あらかじめ評価を期待できる趣味の共同体が存在しないのだ。オタクはそっぽを向き、映像/映画趣味者は苦笑いし、演劇関係者は無視するだろう。どこの誰に向けられてもいない、映画でも演劇でもアニメでも、単なるテレビドラマでもない、不定形で安定した足場のない、そしてだからこそ走り切るしかない、インテンシティの高さだけがある異形の作品が出現する。この作品が当初不人気だったのは当然だ。同時に、中学生の「妹キャラ」が後に追加されたから評価が高まった、などというのは「評価」にならない。この作品の可能性は主演のくるみ/松居彩の才能=タレントに決定的に刻まれているのであって、事実12回のほぼ半ば、5回まで「妹キャラ」なしで十分作品が成り立っている。


鋼鉄天使くるみpure」は、演劇的、映像的、オタク的ガジェットを散乱させながら、非-趣味の荒野を疾駆する。未だ全話を見ていない僕がこのような拙速な評価をするのは、今評価しなければこの作品はほとんど「なかった」ことになってしまいそうだという強迫からだ。ごく一部の、この作品の“無駄な魅力”にひっかかってしまった人々の間でのみ記憶されながら、社会的にはほぼ消えようとしている。誰でもいいから、釣られたものは声をあげるべきだ。この作品を批判する内容であってもかまわない。無視よりは数段マシだ。むしろ、おたく的、映像的、演劇的「趣味」の立場から批判されることはこの作品の面白みを浮かび上がらせることになる。僕自身のこり7話を見れば「マンハッタン・ラブストーリー」の時のように失望するかもしれないが、前半5話の輝きは消して消えることはない。

*1:「HR」は野心的ではあったが、傑作とはならなかった