雑記:「時間」は必要、「お金」はいらない

ここのところ僕が忙しがっているのは個展の準備とは実は全然関係ない。生活上のことです。んで、今日も雑記。


美術作品を見るということの特殊性は、まず「時間をかけて作品のある場所にいかなければいけない」という事にある。最近のように妙に時間がない期間が続くと、そのことがヒシヒシと分かる。なにも僕だって24時間まるまる忙しいわけではない。ちゃんと寝てるし食べてるし、こんな程度の忙しさは、本当に寝食を削っている人から見ればアホか、というようなもんである。しかし、そのくらいの、軽く余裕が無いというだけで、画廊や美術館に行く時間がとれなくなる。深夜までやってる森美術館は例外中の例外で、たいていの美術館は5時-6時には閉まるし、画廊だって7時には閉まる。平気で日/祝休みというところもある。こうなると、時間の算段がつかないというのが致命的になってくる。


本ならどこでも読める。テレビやビデオ、DVDなら家にいれば見る事ができる。音楽だって、ライブはそうもいかないが、再生音なら完全に「いつでもどこでも」だ。webも今や携帯でモバイルとなった。やや美術に近いのは演劇で、これは決められた場所に決められた時間にいかなければならず、美術よりややシビア。映画館はかなり美術に近いだろうか?ワーナー・マイカルシネマなどがある郊外はだいぶ自由度が高くなった。あの大型量販店に映画館併設という形態はかなり革命的だと思う。


とにかく、美術作品を見るのに一番理想的なのは、平日の昼間に時間があり、現場に行ける、という状態だ。一度今の僕のように、「ちょっとだけ余裕がない」事態にたちいたると、とたんにその特別さを実感することになる。サブカルチャーというものの凄みはまさにこの点を反転させている所にあって、相当に忙しい人なのにオタクであることが可能なのは、どのような隙間にでもコンテンツが侵入しうる形態が、その圧倒的な消費を支えているのだ。


だから美術と言うものはある能動性を必要とする。さらに、映画や演劇と違っているのは「見ていれば時間が過ぎてくれる」ことが原則的にない、という事だ。絵や彫刻は、時間を作った上でえっちらおっちら特定の場にお出かけしていって、そこで個別で誰にも指示されないその時だけの関係を結んで、初めて「見る」ことができる。これは今の大部分のコンテンツとは決定的に異質で、だからこそ、美術を見ることはテレビ的「楽しさ」に疲れた感受性に、あるエクササイズをしてゆく生命力を与えてくれる。


美術を消費する、というのは、ちょっとした決意がいる。決意が必要だというだけで、それはほとんど「消費」という概念から外れてくる。もうひとつ、美術が単純な消費から外れてくるのは、例えば画廊で作品を見るのは「タダ」なのだ、という点がある。画廊に出かけることは、抽象的な話では無くマネーのレベルで「消費」ではない。


どこでもいい。レントゲンヴェルゲだろうが南天子だろうがミズマだろうが、とにかく見るのはタダである。東京というのはルーブル大英博物館みたいな「ビック・センター」はないけれども、細かい「美術状況」は異様に集積している。昼間に時間を作れれば、移動代金だけでかなりの画廊は見てまわれる。銀座/京橋なんか、徒歩で10以上のギャラリーを食い散らかせる。青山/原宿だって一定数の画廊があるし、六本木や新川は、1つのビルにギャラリーコンプレックスがある(新川は地上げにあって人形町方面に移転する)。


「現代美術」なんぞどうでもいい、という反動的な人(マトモな人、という意味でもある)でも、大奮発すれば古典を見ることができる。で、どの程度の「大奮発」が必要なのか。上野の国立西洋美術館国立博物館の常設は「420円」かかる。よんひゃくにじゅうえんですよ。日高屋の390円ラーメンにイロつけた程度で「一級品」を見ることができるのだ。地方であっても、たいていの県庁所在地には県立美術館がある。僕の地元の埼玉県立美術館の常設はモネを持っているけど、これは200円で入れる。他所なら無料の所もあるのではないか。


美術を見る事がいかにコストがかからないかは、例えば他のジャンルのクラッシックの作品を見ることを考えればはっきりする。バッハの曲の演奏をまともに聞こうとすれば、普通1万円はかかる。酷いのは舞台芸術で(もちろん舞台というのはコストが異常に高いものなのだけど)、演目によっては数万円したりする。映画が安いが、それでも1800円。フィルムセンターは500円で見ることができるけど、今度は上映機会がなかなかない。場合によっては人数制限でチケットがとれない(空いてるときは空いてるけど)。セザンヌやモネが420円のチケットで常設されてる、というのがいかに特殊かが、良くわかる筈だ。


「時間+移動」、つまり「お出かけ」はかなりの程度必要で、「お金」はかなりな程度必要無い。それが美術作品を見るという事の基礎条件だ。美術はどこをどう押したって「富裕な人の娯楽」ではない。明らかに若い人、貧しい人、あるいは現在の社会で規範とされている生存状況にない人、そのような規範に「のっかる」事に違和感を覚える人、危機感をなにかしら持っている人、精神的飢えを抱えている人にとってあるジャンルだと言える。簡単に言えば、お金持ちではないけど「何かないかな」と、この全てが飽和した社会で考えている人にとってあるのが「美術」なんではなかろうか。


美術を見に行こう。何かの「ついで」でいいのだ。デートの前、仕事の隙間、買い物の後。寝ていて口を開けていれば流動食のように流し込まされてくるようなコンテンツとはまったく質の違う経験がそこにはあって、精神的介護ベッドの日常に違和感を覚えた時、あるいはそのベッドを壊され奪われた、又は自分から捨てた時に初めて見えてくる「非常口サイン」が、美術というものなのだ。そこには思考する時間が流れている。


というわけで、自分に向けてのエントリでした。じゃんじゃん。