国立西洋美術館で開催されていた「ドレスデン美術館展」で見たフェルメール「窓辺で手紙を読む若い女」(1659年頃)には、かすかな温かみというか、画家の体温のようなものが感じられ、少し意外だった。温かみ、というは主観的な言い方だけれども、言い換えれば画家の体の存在が感じ取れるということになる。具体的には筆致、絵の具の「塗り」が見られるということなのだけれども、それはどういうことか。


例えば同じフェルメール「画家のアトリエ」(id:eyck:20040721)では、絵の具の顔料の粒子と光の粒子/光子が重なるようなマチエールが構築されていて、油絵の具を「粘度」によって伸ばすようなタッチは見られない。ピンホールカメラを応用したともいわれるフェルメールの、光の粒を物質として捉え絵画上に定着させる独特のテクスチャーは硬質で「粘度」がない画面を織り成していく。その手さばきは、逆接的ながらフェルメールの「手の動き」を感じさせないもので、今回の「窓辺で手紙を読む若い女」とははっきりと違う。


「窓辺で手紙を読む若い女」は、向かって左手に窓があり、その窓の方向に向いてややうつむきながら手紙を読む横向きの女性が中央に描かれている。画面下、女性の手前には豪奢な布がかけられたベッドがあり、その上には大皿に乗った果物が描かれている。その部屋を遮るように引かれたカーテンレールが画面上辺ギリギリに水平にあり、カーテンは引かれていて画面右1/3を縦に覆っている。このカーテンは、よせられらことによる縦の多くの襞をもつが、この襞の上から下への流れに沿うようにして、絵の具が置かれた筆跡が感じられる。つまり、塗られている。「画家のアトリエ」にもカーテンがあるが、こちらは複雑な織り模様のあるもので、筆跡=塗りは感じられない。「窓辺で手紙を読む若い女」のカーテンは単に白い無地の布で、このことも注意するに値するが、全体に襞のありかたが不自然でこわばった印象があり、そのこわばり方と筆跡があいまって「画家のアトリエ」にはない、“油で練られた絵の具”の存在が現れている。


「絵の具の塗り」は、一番奥、画面上もっと広い面積を覆うことになる壁にも見られる。この壁も無地であり、左手から差し込む外光によって中央の女性の背と重なる部分でもっとも明るく、画面上部、および女性が作る影かと推測できる画面下1/3のあたりでもっとも暗い。内開きになったガラス戸の影なども写しながらグラデーションをなす壁は、明らかに絵の具を「塗る」ことで描かれている。上記のカーテンと併せて比較的広い面積を追おう無地のモノを、このような「塗り」で表現する仕方は、「画家のアトリエ」では見られない。子細に見れば、画面内で一番明度の高い窓枠も「塗られて」描かれており、女性の顔が映るガラス戸にも抵抗感がなく、ここにも「塗り」があるように思える。


フェルメールの作品でのこのような「塗り」は、有名な代表作群ではなく、2000年に大阪市立美術館で展示された初期作品に見てとることができる。後にはなくなる聖書を題材とした古典的構図の作品などでは絵の具の動きがそのまま画家の筆の運動としてある。このようなタッチは、フェルメールの代表作での、筆致が絵の具の粒子的扱いの中に解消し、顔料の粒子=光子が画面に結晶したような「冷たさ」とは対称的な画家の体温、温かみとなって感じ取られる。「窓辺で手紙を読む若い女」は、キリスト教から離れた風俗画であること、手前にカーテンが置かれ室内の情景を覗き見るような構図になっていること、女性がこちら(観客側)を見ておらず、何か(この場合は手紙を読むこと)に没入していることなど、フェルメールフェルメールたらしめているといわれる主要な「図像的」特徴はほぼ完全に備えていながら、その絵の具の扱いに関しては、むしろ初期作品の特徴を示している。


このことは作品の成立した過程、例えば当初右手手前にあった花器が塗りつぶされカーテンとされたこと、背景の壁面に「地図」-フェルメールの代表作に繰り返し登場する「地図」-が消されたことなどを知れば腑に落ちてしまうが、そのような理解は、「窓辺で手紙を読む若い女」を、初期フェルメールから「代表的」フェルメールへの過渡期にある中途的な作品として位置づけてしまう危険性をもたらす。あくまで作品単独を見ていけば、この作品に見られる柔らかな温かみは、一見静的な画面に、ある種の動きや複雑さを与えている事に気付く。画面左から入り込んでくる圧力(その圧力は、風なのかもしれないし、又は光の圧力かもしれない)は、布のかかったガラス戸を内側に押し開き、女性を包み込みながら室内を循環して画面手前のカーテンを右に寄せ、観客の方にまで押し寄せてくるような印象を与える。画面上辺真際にあるカーテンレールの存在も、「とってつけた」不自然さとして見てしまっては十分ではない。観客と画面の間を、遮断しながらも同時に連続させるような、すなわち仲立ちとしてあるような微妙な揺れを作品にもたらしている。その揺れは、画家自身が作品と自己の距離を繰り返し計り直しながら描いていったことの結果現れたもので、「神秘の天才画家フェルメール」などという虚像ではない、いわば「最初のフェルメールの観客」であった画家の思考の揺れそのものと言える。


「窓辺で手紙を読む若い女」に、絵の具の粒子的扱いがないわけではない。画面下のベッドの織り物、特に左下にたごまって盛り上がる部分や女性の衣装には、絵の具の粒子=光子が見える。その光学的な絵の具の扱いは、ややぶれを見せていて、そのぶれがより光学的な輝きを感じさせる。この「窓辺で手紙を読む若い女」は、作品の中での絵の具の扱いが統一されていない。そのことが「窓辺で手紙を読む若い女」を唯一無二の、独自の豊かさをもつ作品にしていると思えた。