南天子画廊で開催中の岡崎乾二郎展を見てきた。僕は先のアートフェア東京の同画廊のブースにあった岡崎氏の立体作品を「お買い物」するような視点で見たのだけれど、今回の個展も、なんとなくそんな気分を引きずって見たのかもしれない。もちろん、大型の絵画作品は、きちんと覚えていないけれどもたぶん1点100万円とかいう水準だったと思うし、現実に買える資金も設置する場所も持ち合わせていないのだけれども。


作品は主会場に大型のものが2点、中型のものが2点、F4くらいの小型のものが1点で、あとは壁を挟んだ打ち合わせ室のようなところに小型のもの、中型のものがあったのだけれど、主会場のものは初見の印象で「きれいだな」と単純に思った。まず入ってすぐ左手の壁に縦160cm×横220cmのものが1点、となりに縦72cm×横91cmのものが一点ある。正面の壁にはやはり縦72cm×横91cm、右手の壁には縦160cm×横220cmの作品が各1点づつある。僕は会場に入って左手の壁から時計まわりに順に作品を見ていったのだけれど、何か個々の作品がまとまって見えてくるというよりは、作品内の各断片が、浮遊して散乱しておりそれらが順々に目の前を通り過ぎていくような感じで、なんだか楽譜の音符が視界の中を通り過ぎてゆくような感じがした。


作品は裏に木枠が付けられ厚みが足された綿布張りのキャンバスの上に、メディウムが添加され透明度が増した絵の具や不透明な絵の具が、ペインティング・ナイフのようなもので押し付けられていたり、十字を描いたり矩形を成したりしている。要素間には綿布の地が広がり、個々が独立している。各タッチは奇を衒わない、何かむしろどこか子供じみたもので、ふと草間弥生氏の近作「ハーイ、コンニチハ!」などを想起したりした。もちろん、ここで書く「子供じみた」という言葉がただちに間違いだと分かるのは、各々の要素のあり方が、恐ろしく完璧に「決まっている」からで(もちろん草間氏の「ハーイ、コンニチハ!」にも同様の事が言えるが)、先に書いた「きれいだな」という印象が生まれるのは、混濁せずくっきりと厚みを持ってある絵の具が、地の綿布や隣り合う、あるいは離れた他の絵の具との関係を極めて厳密な「正しさ」で維持しているからで、このような緊張は子供には決して成りたたすことができない。


この厳密さが生む「きれいさ」は、言ってみれば「洗練」とも言いうるかもしれない。こういった正確さは、最初に設計図が引かれ計算されたうえで様々なタッチが配置されたわけではないだろう。1つのタッチが置かれ、次のタッチが置かれる時、画家は先行するタッチと地の関係を読み取って、新たなタッチを置く。その「読み取り」が正確なのであって、例えば最初の1点が違うものであれば次の1点もそれに応じて変化するだろう。岡崎氏の作品が厳格であるにもかかわらず、軽やかさを維持しているのはそのような事によると思うけれども、今回の個展の作品は、そういった柔軟さから来る軽快な「きれいさ」が、かつてのものよりいっそう「洗練」されている感じがするのだ。より明るくなった、と言ってもいい。作品の厳しさが、見るものに圧迫を与えない、と言ってもいい。


こういった印象、つまり厳格な正確さはありながら、シンプルなタッチが「きれい」に散らばっているような感じを支えているのは、作品の形式の変化がある。一通り見終わって会場を眺めてみて改めて気づくのは、例えば作品が「横長」であることだったり、「1枚づつ」ある事だったりする。去年の岡崎氏の四谷での個展(id:eyck:20040506)を見た人ならば分かると思うが、昨年までの作品は、「縦長」のものが「2枚1組」であった。縦長の構図というのは求心性を持つ。そして、個々に独立する。これは人間の視界が横長になっていて、縦のものを見るには、一度眼球を縦にうごかしてから、次の物を見る時には、その「運動」に区切りをつけ、改めて見直さなければならないからだ。その求心的な画面が同サイズで並列することで、否応でも観客は2枚の作品の照応関係を意識的に追うことになる。事実、去年の四谷での個展での作品は、徹底して2対の画面が複雑に対応していた。


ところが今回の作品は横に長い。横長の構図というのは、求心的にならずに広がる(散乱する)。そして、横長の作品が複数並んでいても、視界の性質によってそれらは縦長のものに比較して「連続」しやすい。この連続する横長の構図が、1点づつあるところがポイントになる。実は、会場に入って向かって左手の壁にある違うサイズの2点、および正面の1点と右手の1点は、個々に独立した作品でありながら、それぞれ「2枚で1グループ」を成している。左手の壁のものは、例えば十字の形の要素が反復されているし、正面と右手の壁にあるものは、矩形の要素や上下逆U字の要素等が反復されている。だから、これらは「2枚1組」と言いたくなるのだが、多くある要素は全てが全て明快に照応しているわけではない。反復されているものもあるし、そうは見えないものもある。


僕が「お買い物」的な見方をしたかもしれない、というのは、ここに出てくる。ぶっちゃけた言い方になるが、岡崎氏の作品は明らかに去年の個展の時より「買いやすく」なっている。大型の作品が2枚1組であるよりは、縦160cm×横220cmと大型でも1枚の方が「買いやすい」。縦72cm×横91cmのものなら更に「買いやすい」。価格でも設置場所でも遥かにそうだ。僕は俗な話をして岡崎氏の作品を矮小化しているのだろうか?しかし、1つの壁面に2枚並んでいるものだけでなく、1壁面1枚で「2枚で1グループ」の作品がある事の効果を思うのは、まさにそういう見方をした時なのだ。昨年までのものは、物理的に「二枚で1組」という形で所有していなければいけないと思えるが、今回のものは「1枚づつ」、個別のオーナーが個別の離れた場所に持っても問題がない。そして、離れた場所にあったとしても、2作品の間の照応関係は維持される。


いわば、地理的に離れた場所が、個々に独立しながら緩やかに応答している2つの作品でネットされる。2枚1組の作品は、その現実の距離の紐帯を解き放たれたと言ってもいい。応接室にある、やや小型の横長の作品が2枚縦に並んでいる作品は、そのような転換を引き起こすトリガーだったのかもしれないが、これはあくまで推測だ。


作品が「個別」になったことは、別に新たな側面を生む。つまり、1枚で単独にあってもよい状態になければならない、ということだ。去年の岡崎氏の四谷での個展にあった作品が個別に見て「悪かった」と言う意味ではないが、ただそれは基礎条件として2枚1組であることから生まれる「大きさ」をもっていて、求心的な縦の大型作品が2つある、というだけで、それはどうしても「視覚的な圧力」を与える。そのあり方に圧倒されるという気分は、明らかに緊張をもたらすものだったし、個々のタッチも大振りでアクロバティックな運動を見せ、凄みを持っていた。そのような凄みは、例え大きな家と資産を持っていたとしても、自宅のリビングに置くにはやや勇気がいるだろう。対して、横長の作品が単独である状態は、高圧性がない。個々のタッチもやや小振りになり、アクロバティックさが消えている。誤解を恐れずに言えば、「親しみやすい」。すなわち、買いやすい。


そそりたつ「縦」から視界に沿う「横」へ。緊密な「2対1作」から、緩やかな「照応した個別」へ。「買いにくさ」から「買いやすさ」へ。そして「買われていった先々」での効果。なんらかの形で岡崎乾二郎氏が新しい1歩を歩み出したことは伺える。興味ある方は会場へ。この前も書いたけど、とにかく画廊で「見るだけ」なら、いずれにせよ「タダ」である。


岡崎乾二郎